時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(7)(2017,05,01)

 《言葉の旅人・大岡信さんを偲んで 》
 先月5日、詩人で批評家の大岡信さんが86歳の天寿を全うされた。その業績や足跡については既に各種メディアで詳細かつ大々的に報道されてきたので、門外漢の私が殊更あれこれ述べるまでもないであろう。
 大岡さんは現代最高峰の詩人のひとりとして、真の意味での言葉というものの重要性を独特の表現力と手法をもって静やかに、しかし深く鋭くこの社会に訴え続けてこられたのだった。詩人や歌人、俳人などというと感覚的かつ情動的な言葉を用いその内面に渦巻く喜怒哀楽の激しい感情を表出する人物らだというふうに世間では誤解されがちである。だが、それは一般社会の人々の勝手な思い込みなのであって、優れた詩人や歌人、俳人というものは、見方によっては科学者以上に理性的で、驚くほどに冷静沈着な存在なのである。詩歌のもつ社会的な意義が過小評価されてきている昨今、私たちはその実状を幾分でも反省してみる必要があるのかもしれない。
 詩人や歌人、俳人らは、ごく短い言葉で奥深い人間の内面や複雑な社会の実相を抉り出すが、彼らがその人生を賭けて吐露する数々の言葉は、そこに至るまでの並外れた理性的思考の裏付けがあってはじめて生み出されるものなのである。一見したところでは、折々の感情に誘われるままに、安直かつ無造作にそれらの言葉が創り出されているように思われるかもしれないが、透徹した理性の支柱が不可欠なその舞台裏は、けっしてそんなに生易しいものではない。本物の言葉の職人というものは、自らが生み出し用いる個々の言葉や表現の限界というものを十分に弁えており、そのうえで、過去から現在を経て未来へと通じる言葉の社や言葉の伽藍を構築しようと試みる。
その作業は、超一流の宮大工が、その命を絶つことを心中深密かに詫びながら、長年にわたって大切に育成してきた樹木をここぞというときに伐採し、その木材の寿命や限界を知り尽くしたうえで、伝統的な寺社仏閣の改修や修復、復元などに挑む過程と何処か似通ったところがある。宮大工が遠い過去と遥かな未来の双方を真摯に睨み見据えながら、最大限の理性的思考のもと、その時代なりの創造性を加味した作業を遂行するのと同じことを、言葉の職人もまた実践しているのである。一流の宮大工の数が限られているように、超絶技巧を要する言葉の職人の数もまた限られている。我われは、そんな言葉の職人が紡ぎ出した詩歌や俳句を目にするとき、それらを構成する一語一語の表面的な意味だけに捉われず、個々の言葉の向こうに広がる広大で深遠な理性の世界をも認識するようにしなければならない。そしてまた、その「行間」を読み取るだけでなく、「語間」をも読み取らなければならないのだ。
 大岡信さんは現代の日本社会においては稀有そのものの言葉の職人であったと言ってよい。しかも、自らが構築した言葉の尖塔のみをひたすら眺めて満足するのではなく、ほかの言葉の職人らによる業績をも的確に評価し、後に続く若くて未熟な言葉の職人見習いたちを本物の職人へと誘い育てる大きな度量を持ち合わせてもおられたようだ。朝日新聞の一面を29年、6762回にわたって飾った「折々のうた」などはそんな大岡さんのお人柄を象徴するものでもあったろう。大岡さんと並ぶ現代の大詩人で、大岡さんに追悼の詩を捧げられた谷川俊太郎さんもそうだが、言葉というものの力の限界を冷静に弁え、そのうえで苦悩しながら自らの言葉を真に磨き身に付けた人には、その自然体の奥底から滲み出る独特の風格や存在感が具わっているものである。それは、その人の見た目の身なりや地位身分などを超越したものであるが、むろん容易に到達できるような境地ではない。
 その奥に理性のかけらも見てとれない感情的な言葉を吐くだけの政治屋、まるで操り人形そのものの薄っぺらな言葉しか発することができず、どう見ても自分の言葉など持ち合わせない当今の総理や閣僚らの姿を目にするにつけても、遣り場のない思いに駆られるのは私だけだろうか。まして、そのような人物らが、訳知り顔で日本の歴史や伝統文化の重要性を偉そうに説くのを目にすると、悟りきれないこの身などは、怒り心頭に発する気分にもなってしまう。我われ日本人は、この際、大岡さんの遺志をしっかりと受け継いで、深く優れた日本語による表現や思考の意義を再評価していくべきだろう。
(望外の大岡信さんとの出合い)
 ご生前の大岡信さんには、二度だけだが直接にお会いする機会があった。私事にて恐縮ではあるが、この際だからその回顧譚を少しばかり綴らせてもらおうと思う。今から21年前の96年のこと、私は「佐分利谷の奇遇」というささやかな紀行作品で第二回奥の細道文学賞(草加市主催)を受賞した。実を言うと、その文学賞の選考委員のお一人が大岡信さんだったのだ。選考委員の残りお二人は、芭蕉や蕪村の研究で名高い尾形仂さんと日本文学研究やその翻訳で知られるドナルド・キーンさんであった。大岡さんも尾形さんも他界された今、そのなかでご生存なのはドナルド・キーンさんだけになってしまった。今は故人だが、かつて親交のあった穴吹史士朝日新聞記者などは、生来の口の悪さも手伝って、「これから読ませてもらう本田さんの作品の評価はさておくとして、審査員だけは超一流で素晴らしいですね」などと皮肉交じりの一言を吐いたほどである。
 同賞の授賞式終了直後に会場内の一室で受賞記念パーティが催され、私は審査員のお三方と同席させられることになった。そして、そのときテーブルを挟んで向かい合ったのがほかならぬ大岡信さんであった。状況柄、緊張のしっぱなしだった私に対し、大岡さんは優しい笑みを満面に湛えながらごく自然に話しかけてくださった。そして、一介の駆け出しライターの身に過ぎない私の労をねぎらい方々、文筆の世界におけるご自分の苦労譚などを巧みなジョークを交えつつ紹介してもくださった。大詩人として広く知られる大岡さんから直接にそんな話を伺えるなど想像だにしていなかった私は、その飾り気のないお人柄に深く魅了されるとともに、真の詩人というものの何たるかを心密かに学び取ったような次第だった。しばらくして幾分ともその場の雰囲気に慣れた私が、敢えて図々しい質問などをした際も、大岡さんは穏やかな表情で的確な答えを返してくださったものだった。 
 それは大岡さん執筆の「折々のうた」が連載17年目を迎えた頃のことだったが、「近頃は歳のせいで忘れっぽくなり、前に書いたものと同じ内容の原稿を編集部に送ったりして顰蹙を買ったりすることもあるんですよ」と笑いながらおっしゃったりもしたものだ。次にお会いしたのは私の住む府中市での講演のためにお見えになった折で、前述した奥の細道文学賞受賞作品をも収録した拙著「星闇の旅路」(自由国民社刊)を献呈させて戴いたのだった。

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