時流遡航

第43回 原子力発電所問題の根底を探る(9)(2012,08,01)

賛否両論が渦巻く中で大飯原発3・4号機が再稼働し、236万KWの電力を供給し始めた。かつて同原発についての詳細な探訪記を書き、またその時以来、地元の原発維持派と廃止派それぞれの代表的人物とも交流を持ってきた身としては、一筋縄ではいかない双方の事情がわかるだけに胸中複雑なことこのうえない。一個の人間としては共に立派な見識をお持ちで、人々に対する思いやりも深い時岡忍大飯町長や中嶌哲演明通寺住職などの姿を各種メディアで目にするにつけても、遣り場のない思いがひたすら募るばかりである。

(原発美人の排泄物処理法は?)

高級レストランで若い美人が食事をしている様子を目にしたりすると、口にした高価な料理を完全消化し、排泄物など一切出さないかのようにも見えさえする。大飯原発探訪の際に受けた印象はどこかそれと通じるものがあった。放射性廃棄物の処理や保管についての説明などは皆無で、その種の問題が存在することさえも感じさせない独特の雰囲気をもつ見学コース設定になっていたからだ。そこで、少々意地の悪い質問かなとは思ったが、放射性廃棄物はどう処理しているのかと尋ねてみた。喩えは悪いが、この原発美人はどこでトイレを済ませているのか、またその排泄物は誰が何処でどのように処理しているのかと訊いてみたわけである。相手は一瞬口籠ったあと慎重に言葉を選んで、「いま国に指示を仰いでいるところで、当面、使用済み核燃料や低レベル放射性廃棄物は本施設の地下貯蔵庫に安全かつ厳重に保管しています。ただ、いずれ完全な安全処理がなされることになっています」と答えた。裏を返すと、それは、「放射性廃棄物の最終的処理法は国が決めることで、なんとか安全な処理法が見つかると期待します」ということにほかならなかった。

プルトニウムを燃料とする高速増殖実験炉「もんじゅ」がナトリウム漏れ事故を起こして以来、その存続自体が疑問視され続けてきているが、使用済み核燃料を再処理しプルトニウムを抽出したとしても、ストロンチウム90、セシウム137、アメリシュウム241など、俗に「死の灰」と呼ばれる高レベルの放射性廃棄物は残る。それらの最終処理問題に関しては、当時ようやく科学技術庁や電気事業連合会が対策推進準備会を発足させたばかりであった。そのままなら液体状で残留する高レベル放射性廃棄物の水分を蒸発させて濃縮し、ガラスと混ぜ固めて直径40cm、高さ1.3mほどのステンレス製の専用容器に封入、青森県六ケ所村に完成予定の「廃棄物管理施設」で30年から50年間保管後に地下深く埋め込むというのが、関係者の描く大筋の構想であった。だが現実には、20年近くを経た現在においてもなおその構想は宙に浮いたままである。

中央制御室を見学したあと最後に案内されたのは、原子炉冷却用海水が絶え間なく流出入している取水口と排水口だった。4基の原発がフル稼働していたその当時、幅50m、水深10mほどの取水口からは毎秒330㎥もの海水が流れ込み、原子炉の冷却システムを一巡したあと7度も温度が上がった状態で排出されていた。余熱だけでも毎秒33万キロカロリーという驚くべき熱量が放出されていたことになる。一方の排水口からは、最近上空からのその写真が公開されている大規模排水池に向かって噴流が迸り出ていた。また、大量の排水を一時溜めおく排水池と海との間には、高温の排水が直接拡散される範囲をなるべく狭めるために工夫された有孔消波堤があって、その下部にある孔から冷却用水は海へと戻されるようになっていた。この種の排水から微量の放射能が検出されたとか、排出される海水が高温なため周辺の海域の環境が変化し漁業に悪影響がでたとか、逆に高温が幸いして一部の魚類が繁殖しやすくなったとか、明確な科学的根拠が提示されないままに、当時から様々な議論が繰り広げられもしてきていた。

(原発全廃が理想だが)

これまで指摘してきた原発の問題点からしても、国内の原発の即刻全廃が可能ならそれがベストなことは明白だ。だが、自然破壊につながる発電用大型ダムの建設、二酸化炭素や窒素化合物の排出と資源購入費の急騰を伴う化石燃料依存型発電所の増設は限界に近づき、太陽光・風力・地熱・潮力等の自然エネルギー利用発電の即時普及には技術的・経済的さらには環境的課題が山積しており話は決して容易でない。安全な核融合技術の完成はまだ先の話だし、国内で有望視されているメタンハイドレートやシェールガスの採取事業実現までには莫大な先行投資と関連技術開発のための時間が必要だ。さらにまた、正常に機能している原発を完全に廃炉にし、使用済み核燃料類を安全に処理するだけでも30年以上の歳月とそれなりの人材や技術を要する。かなり長期にわたる大幅節電や電気料金の値上げをも覚悟しなければならないから、経済界や産業界が徐々に停滞することは不可避となるだろう。もちろん、この困難な事態を契機にして画期的な節電技術や安全で高効率な発電技術が開発される可能性はあるが、それも直ちに実現するというわけではない。

いささか話が飛躍するが、もともと片田舎育ちの身である筆者などは、子供の頃に体験したランプ、井戸水、汲み取り式トイレ、そして屋外労働つきの生活を厭いはしない。だが、今更そんな私的心情論を振りかざして時代の潮流に逆らってみたところで、社会全体から見ればそんな行為はほとんど無意味に等しい。歴史的に見ても技術文明の流れを逆行させることに成功した事例はなく、いったん便利な生活環境に慣れてしまうと、それが当然だと思うようになり、戦争その他のよほどの衝撃的な事態でも起こらないかぎり容易には元の状態に戻れないのが人間の性というものなのだ。生活環境や生活レベルが大きく昔の状態に戻る事態が起こったとして、現実にそれに耐えていける現代人がいったいどれだけいるだろうか。自然が豊かな地方に引き籠り、極力、省エネルギーの精神にのっとった人間本来の生活を営むべきだという主張にも一理はあろうが、国全体の問題として考えてみるとき、そのような主張は空論以外のなにものでもない。

現在、大飯原発3・4号機以外の原発は運転停止しているが、地震や津波が起こった場合の危険性に関して言えば、稼働していようがいまいが状況的に大差はない。さらにまた、たとえ稼働停止していても核燃料を冷却し続けるためのコストや安全を維持するための各種制御用コストもかかる。詳細については後述するが、仮に国内の原発を全廃するとしても、それに必要な技術を次世代に伝承するには最小限の原発の維持は不可欠だというパラドックスも生じてくる。既に、我々は原発の存在に伴うリスクの幾莫かを自らも背負う覚悟をもってエネルギー問題に対処するかない状況に追い込まれているのである。

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