時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(4)(2016,12,15)

伊豆半島戸田(へだ)~北から来たもうひとつの黒船とは?――②
 ディアナ号に装備されていたカッターボートやランチ、さらには地元漁船などに分乗したプチャーチン提督以下500余名の艦員らは、地元漁民との必死の共同作業によって張られた艦と浜辺との間のロープを命綱として何とか激浪を乗り切り、宮島村(現在の富士市新浜一帯)に無事上陸することができた。また、そのとき一緒に艦内の貴重品や各種資材、器具類の一部も陸揚げされた。
それから2、3日後のこと、沈没寸前の状態にあったディアナ号をなんとか戸田湾内まで曳航しようということになり、駿河湾周辺の漁船百隻ほどが宮村沖に集結した。2000トン級の巨艦ディアナ号の周りに蟻のように群がるそれら手漕ぎの小漁船に曳航されて、同艦は戸田の入江のほうへと数キロメートルほどジリジリと移動したのだが、不運にもそこでまた突如海上に巻き起こった疾風に襲われ、戸田湾の北西方向8キロメートルほどの駿河湾奥でついに沈没してしまったのだった。日露和親条約締結のため来日したこの折のディアナ号には、一種の呪いかとも紛うばかりの二重三重の悲運がつきまとっていたとしか思われない。ただ、その悲運がやがて日露両国を繋ぐひとつの懸橋(かけはし)へと転じていったのだから、歴史の展開とは何とも不思議なものである。
いったん宮島村に上陸したロシア人一行は、幕府の命令に従いそのあと2日ほどをかけ陸路徒歩で戸田へと護送された。毛色も肌の色もまるで異なる500人余もの異国人が降って湧いたように現れたのだから、戸田村の人々の驚きと戸惑いのほどはひとかたならぬものであったことだろう。幸い、ロシア人たちは、幕命があってのことだったとはいえ、住居や食料を供与してくれる戸田の地元民に心から感謝し、終始一貫して紳士的に振舞った。そのため、戸田村の住民らとの関係はきわめて友好的なものであったという。村人たちはロシア人一人ひとりにニックネームをつけたりし、その便宜的ネームを介して彼らと親しく交流していたらしい。それらロシア人一行の全員が最終的に帰国の途に着くまでの約6ヶ月間というもの、双方の者たちが実り多い親交を続けたことは特筆に値する。むろん戸田以外の地域から同村への一般人の往来は厳しく制限されていたのだが、この戸田の地において、当時としてはきわめて異例な日露間の国際協力態勢のもと、歴史的な一大事業が繰り広げられることになったのだった。
 天の采配とでも言うべきか、遭難したディアナ号の艦員の中には、偶々、のちに飛行機の設計製作でもその名を知られるようになるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていた。プチャーチンをはじめとするロシア人一行の帰国にはどうしても専用船が必要不可欠であったから、必然の成り行きとして、このモジャイスキーによる設計と技術指導のもと、戸田の入江の一隅でスクーナー型帆船を建造しようということになった。もちろん、そのための各種造船資材や船大工、人夫などは幕府側が提供することになったのだが、少しもその労を厭わずロシア人らのために十分な便宜をはかり、造船作業の遂行に大きく貢献したのは、ほかならぬ幕閣川路聖謨と韮山代官江川太郎左衛門の二人であった。
 有能な彼らは将来の造船技術の発展を睨んだ的確な指揮を執り、そのスクーナー船建造にあたっては、国内各地の高名な船匠(船大工を統括する棟梁)7名を含む40名ほどの船匠のほか、西伊豆各地の船大工多数を直ちに戸田へと召集した。それら船匠や船大工に幕府の諸役人や村の責任者、現地人夫を合わせると日本側が300名、それにロシア人たち500名を合わせ、総勢800人ほどの者が世紀のこの一大事業に従事することになった。川路らが多数の船匠を招集したのは、西欧の船舶工学にのっとった強靭な竜骨構造を持つ木造船を国内で初めて建造するにあたり、その高度な造船技術を彼らに習得させようと考えたからである。
プチャーチン提督によって「戸田号」と命名された、この2本マスト、全長22メートル80トンほどの本格的な洋式帆船は、設計技師モジャイスキーらの指導のもと、3ヶ月たらずという当時としては驚異的なスピードで完成された。また一方、この一連の造船作業を通して、国内の船匠たちは竜骨をもつ外洋帆船の建造技術をはじめて実地で学びとったのだった。攘夷派の中心的人物で、当初は「ロシア人全員を皆殺しにせよ」とまで息巻いていた水戸斉昭までが、最後には複数の家臣やのちに石川島播磨重工(現IHI)の基礎を築くことになる自藩の船匠らを戸田に送り込み、戸田号の建造現場を見学させたというのだから、その出来事は、我われが今想像する以上にセンセーショナルなものであったに違いない。
(戸田号には和洋折衷の工夫も)
 実のところ、単に洋式帆船が造られたというだけの話なら、戸田号が誕生する数ヶ月前に国内ではすでに2隻の大型洋式帆船の建造が行われていた。大型船舶の必要を強く感じていた幕府みずからが浦賀で建造した鳳凰丸と、薩摩藩が鹿児島で独自に造船した昇平丸とがそれである。だが、両船ともに外国の造船関係文献を頼りに見よう見真似で建造された代物だっただけになにかと技術的欠陥が多く、薩摩の造った昇平丸などはとくに浸水がひどくて、まったくの失敗作となってしまったとのだいう。したがって、戸田号こそは、我が国で初の本格的な竜骨構造をもつ洋式帆船だったと言ってよい。実作業の監督にあたった7人の船匠たちは、細大漏らさず船の製作過程の克明な記録をとり、のちのちの洋式帆船建造に備えようと努めもしたのだった。
 もっとも、幕閣の川路らから特別に招聘され戸田号の建造に臨んだ日本の船匠たちが、けっして受身いっぽうで通していたわけではない。全体的な船の骨格造りの段階ではロシア人技師たちの指導が大きな力となったのだが、細部の作業や表面仕上げの段階になると、手先の器用な日本の船匠や船大工らの技術とアイディアが次々に活かされ、その素晴らしさにロシア人たちは皆舌を巻いたのだという。
 面白いことに、戸田号には、日本人船匠らの意見を入れて日本式のオール、すなわち、手漕ぎ櫓が6丁ほど備えつけられていた。500名余のロシア人船員のうち、先行帰国を図ったプチャーチン提督ら50人ほどの一行の乗る戸田号がカムチャッカのペトロパブロフスク港に近づいたとき、それらの櫓が思わぬ威力を発揮することになった。当時はクリミア戦争のさなかだったため、同港沖一帯はイギリスとフランスの艦隊によって包囲されていた。ところが、たまたまその日は稀にみるようなべた凪で帆がほとんど機能しなかったため帆をおろし、ロシア人たちは備えつけの艪を使い、夜陰に紛れて敵艦隊に発見されることもなくアバチンスクの入江に逃げ込むことができたのだった。

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