(老いた身が小ドライブ旅行に托す想い――④)
過去何度となく訪ねたことのある城ヶ崎海岸ですが、以前は無料で利用可能だった門脇灯台近くの駐車場が完全有料化していたのは想定外でした。付近の状況に詳しい大脇君も意外だったらしく、二人で口を合わせるようにして、「これも時代の流れなのかなあ」と呟きながら苦笑したような次第でした。安全面を含めた諸々の周辺環境を、何かと規制のうるさい昨今の時流に合わせて整備するには、それなりの経費も必要だからなのでしょう。
なお収まるところの知れないコロナ禍の下で、遠方への旅行が規制されている所為もあったのでしょうか、城ヶ崎海岸の中枢部に当たる門脇崎灯台へ向かう通路や、灯台からほどないところにある門脇吊橋一帯は想像以上の混雑ぶりでした。駐車場でさりげなく一瞥した車のナンバーの殆どが東京近辺のものだったことからしても、遠出を抑制された首都圏の人々が、近場で自然を満喫できる伊豆の地を選んで集まってきているのは明らかなことでした。海外旅行の隆盛に伴い、昔に較べて観光客が激減した伊豆半島一帯ですが、地元民はこれを契機にまた伊豆方面への来訪者が増えて欲しいと願ってもいることでしょう。
門脇崎灯台そばの展望所からは、眼下遥かに広がる青い海原と、切り立った直下の岩場で激しく寄せ引きしながら、その純白の牙をもって絶え間なく岩々を食む潮(うしお)の姿を心ゆくまで眺めやることができました。海が見たいと望んだハナさんが、遠く何事かに想いを馳せでもするかのようにその光景に眺め入っている姿は、心に残るものでもありました。そして大脇君共々その脇に立ち並んでいた私も、一瞬、鹿児島の離島の海辺で育った遠い日々のことを懐かしく想い起こしもしたような次第でした。連想効果とでも言うべきものなのでしょうが、認知症の世界入り間近な老身にしてみれば、その時期を遅らせるためには、それも多少なりには役立つかもしれないと思ったりもしたものです。忘却の彼方の世界から、ごく僅かとは言え記憶のかけらを呼び戻すことができるというわけなのですから……。
城ヶ崎海岸観光で売り物の門脇吊橋はこの日結構な盛況ぶりを見せていました。この吊橋は垂直に切り立つ断崖に挟まれた細長い入江の上に架かっており、海面から20メートル以上はある橋上の海側からは、透明に澄み切ったエメラルドグリーンの潮の動きや。その水流の底にあって黄白色に輝く数々の岩盤類を眺めることができるのです。また、橋の陸側最奥には、長年の激浪による浸食を受けて出来た洞窟様の特殊地形なども見られます。
高度恐怖症には無縁で、むしろ高度享楽症気味な性分のこの身は、久々にその吊橋上に立つと、手摺から半ば身を乗り出すようにして青く煌めく潮の動きを眺めやっていました。そしてその際、吊橋の造りが以前に較べずっと頑丈になっており、橋の幅もこころもち広がって通行者が楽にすれ違がえるようになっていることに気づきもしました。インスタ映えを狙ってか、様々なポーズで橋上写真を撮り合う観光客も多く、時代の変化を痛感しましたが、自撮り棒を使って自らを撮影するお客が少なからずいたのも時代遅れの老身にはちょっとした驚きでもありました。我々より二回りほど若いハナさんなどは、初めて目にする吊橋からの景観に心底感動したらしく、何度も足を止め眼下の潮の煌めきを眺めやりながら、何事かを確認でもするように、繰り返し写真撮影に耽ってもいました。
吊橋を渡り終え少し断崖伝いの遊歩道を進むと、歩道から分岐し急角度の傾斜を成して磯場へと下る隘路のある地点へ出ました。岩々の連なる荒磯へと続くこの細路は、昔、まだ幼かった息子や娘を連れて何度も足を踏み入れたことのあるところでした。波の打ち寄せるその磯場には、亀の手、傘貝、黒蜷、黒蝶貝、フジツボ、尻(しっ)高(たか)、トコブシなどの貝類が棲息しており、それらを採取したあと、その場で汲んだ綺麗な海水で茹でてみると何とも美味で、子どもたちも大喜びしたものです。それらのなかでも亀の手の味は抜群なのですが、意外にも、岩場に群生する少々異形の亀の手が食べられると知っている人は数少ないのでした。ましてやそれらの採取法や食べ方を熟知している人は極めて希であり、その意味では南国の離島の海辺育ちの身の腕の見せ所であったと言うべきかもしれません。
(荒磯を眼下に老いを自覚する)
しかし、この日は事情が少々異なりました。まず、大脇君がその急峻な分岐路をちょっと下ったところで足を止めたのです。些かの運転疲れがあったうえに、気温がかなり上昇してきたこともあったのでしょうが、今日はもうあの岩場まで急峻な隘路を往復する気力はないとでも言いたげな様子でした。いっぽうその表情を見て取った私も、それに合わせるように足を止めてしまいました。貝類採取の準備もないし、眼下の岩場の様子をお互い既に知り尽くしているということもありましたが、多分、お互い老化が進んで自由かつ柔軟な足捌きができなくなってきているのを自覚し始めていたからでもあったのでしょう。
一方、独りでどんどん足を運んで荒磯へと降り立ち、激しく波の打ち寄せる岩場の端へと近づいたハナさんだけは、折々水飛沫に包まれる一帯の景観を心底楽しんでいる感じでした。我々二人は、そんなハナさんの後姿を遠目に眺めながら、彼女が戻ってくるまでの間、近くの小岩に腰を据えしばしの休息を取っているような有様だったのです。若い時代の自らの姿を想い合わせると何とも情けないかぎりなのでしたが、歳をとるということはそういうことなのだと、つくづく納得させられる事態ではありました。
城ヶ崎海岸探訪を終えた我々は赤沢恒陽台別荘へと戻ることになったのですが、途中で、車は蓮着寺脇を通過しました。史伝によると、鎌倉幕府への批判を咎められた日蓮は1261年伊豆へと流罪になり、当地から500mほど南の岬の沖にある俎(まないた)岩(いわ)上に置き去りにされたのだそうです。満潮に激浪が重なれば海中に沈むその岩上から地元の漁師によって救い出され一命を留めた日蓮が、一時期この地に隠れ棲んでいたことに因み、その寺は「日蓮が漂着した寺」、すなわち着蓮寺と命名されたというのです。同寺から海伝いに峻嶮な岩場を縫うようにして遊歩道が続いているのですが、今回はその探索は断念しました。
別荘へと戻った我々はそこでまた錆びつきかけたお互いの頭脳を少しでも機能させるべく、様々な回想譚を交えた味わい深い談笑に耽ったのですが、日帰りのハナさんの出立時刻が迫ってきたため、再び伊豆高原駅へと向かいました。そしてそこでハナさんとの別れを惜しむ一方で、鎌田君という高校時の同期生を出迎えることになりました。鎌田君とは60年ぶりくらいの再会でしたが、昔ながらに知的な彼の問い掛けに誘(いざな)われるようにして3人の間で話は弾み、遂にはビッグバン問題の素人論議にまで及び至ったような有様でした。ビッグバンは無から生じたとされるが、そもそも完全無の世界が存在していたと考えること自体論理的矛盾ではないのか――そんな話題にも触れながらの歓談ではありました。