時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(4)(2015,04,01)

(科学と社会学との融合を願う)
 真の意味での教養というものの重要性を自覚し、文系・理系の枠組みを超えて後進の指導にあたっている研究者の一人に、首都大学経営学系学部長を務める桑田耕太郎大学院教授がいる。日本の組織論学会の重鎮でもある同教授は、昨年の本誌12月1日号巻頭のOBSERVER欄に登場し、「各部門のスペシャリストはいるが、各種組織全体の構図を長期的に描ける人材が近年急速に欠如してきている。組織化が進むに連れその内部は専門分野ごとに細分化していくが、組織全体の構図を見極める人材がいなければ組織は単に個々の利権のみの渦巻く無責任集団と化してしまう。それを防ぐにはゼネラリストという名のスペシャリストが不可欠だ」という趣旨の発言をしている。
そして最後に、「人材の育成には教養――すなわち、全く異なる事象を結び付ける発想の根幹と成す資質の養成が必要で、それを疎んじると将来像を描く能力が失われる。大学教育も専門研究ばかりに走っているのはおかしい。専門分野の研究業績だけをひけらかそうとすると穴に落ちる。人の心が分からなければならないが、そのためには教養を重視する教育に立ち返ることが肝要だ」と結んでいる。
 横浜国立大学経営学部を経て東京大学大学院に進み、同大学経済学部研究科博士課程を抜群の成績評価のもとに修了した桑田教授は、29歳の若さで都立大学(現首都大学東京)の助教授に就任した。その後、米国スタンフォード大学に留学、シリコンバレーやNASAの組織研究などにも専念し、帰国後は都立大の学長補佐などをも歴任しながら、経営組織論の第一人者として現在に至っている。昨今はSPring-8やJAXAなどのような先端科学の研究機関からの各種諮問や協力要請も少なくないようだ。
これまで新宿の東京都庁ビル内に置かれていた首都大学東京・経営学大学院が近々千代田区丸の内に移転するが、長年にわたってその統括責任者を兼任してきた桑田教授は、現在、舛添都知事からの強い要請を受け、丸の内移転後の同大学院内に少数精鋭主義のもと、世界最高レベルの金融工学の専門家を養成する部門の設立に奔走している。金融工学を根底で支えるのは高度な数理解析技術やコンピュータサイエンスであるから、指導者となる人材確保ひとつをとっても文系・理系を超えたネットワークは欠かせない。
数理科学系の研究分野についても造詣が深いという点で、国内の社会科学系研究者としては極めて異例な存在の同教授は、社会科学系の知識や能力が高くても数理科学系学生並の数学の基礎素養がないと自分のゼミには入れないという。桑田教授の若い頃の姿については、この時流遡航の第60回に当たる13年4月15日号で少しだけ触れたことがあるが、実を言うと、この私は、縁あって同教授の成長の過程を長年にわたり見守ってきた。中学時代の困難な生活環境の中から力強く立ち上がり、高校、大学、大学院と進み真摯に学ぶ健気な姿を目にしながらも、折につけ随分と厳しいことを言い続けてきたこの身だが、今となっては、逆に、こちらのほうが何かにつけて教えを請う有り様だ。
 東日本大震災のあった年の9月、桑田教授からの依頼を受け、前述した経営大学院在籍の社会人受講者を対象に、「科学技術と社会」というテーマで講演をしたことがあった。必然的に大地震や大津波への対応のありかた、原発事故処理問題などについて触れざるをえなかったのだが、その中で、「これからは自然科学者と社会科学者とが緊密な連携を保ちながら、強力な決定権をもつ行政中枢へと真剣かつ積極的に関与していくことが不可欠で、従来のようなお客様的な委員会や諮問機関への参画は無意味である。また、『理系のことはわからないから、あるいは、文系のことは分からないから、それが分かる人に任せる』といったような態度はもう許されない」という趣旨のことを述べさせてもらった。
もっとも、その折のそんな私の提言は、もしかしたら釈迦に説法だったのかもしれない。なぜなら、同経営大学医院の社会人在籍者は実に多士済々であり、なかでも印象的だったのは、その五割前後が理工系学部系の出身者で、実社会で従事している仕事も同分野の関係が半数を占めているとのことだったからである。
(想定外の事態に対応するには)
それはともかく、科学理論に基づく科学的立証性のみにこだわると、東日本大震災のような災害の場合には対応策や政治的判断が後手後手にまわってしまう。例えば福島原発事故の実態やその全容、後々の展開などについては、原発の専門家にも本当のところが見えず、試行錯誤で対応するしかなかったというのが実情だったのだろう。このようなケースでは、過大な対応だったとのちに批判される結果になったとしても、また無駄な経費を要したと責任を問われるようなことになったとしても、最大限の防御体制をとるしかないのだが、そのためには社会学的、なかでも組織論的判断が欠かせない。未知の事態や想定外の災害等に遭遇した場合、的確な情報把握、情報判断、情報公開にどう対応するかは社会学的課題であり、一般に社会学的知識の乏しい自然科学者だけでは十分な対応が取れない恐れがある。だから社会学者の組織的協力が必要となってくるのだが、そのためには、常々、社会学者のほうもそれなりに自然科学の知識を身につけておかなければならない。
災害時における各種メディア組織の報道上の位置取りはきわめて重要で、心情論に走りすぎても論理性に走りすぎてもいけないが、メディアのその種の対応能力の低下は近年著しいと言わざるをえない。また、極端な営利主義へと傾きがちな昨今のメディアの経営体質に起因する問題も少なくない。だが、その一方で、メディアの視聴率重視の戦略に乗せられて本来あるべき冷静な判断力を失い、ともすると軽挙妄動とも言うべき行為に出てしまいがちな国民心理の深層を社会学的側面から分析し、対応策を検討することも重要だろう。なかでも、災害時に緊急情報を把握統括する担当者にとってさえ、入手情報の真否やそれらの迅速な公開の是非判断が難しいような場合、社会学・政治学的にどう対応するのが最も望ましいことなのかは今後の大きな課題だと考えるべきだろう。
 多々問題はあったにしろ一昔前の政治にはそれなりの品格というものがあった。政治理念が経済理念の上位に位置づけられるか、そうではなくても政治理念と経済理念は同等の立場に置かれていたからである。しかしながら、なにかにつけ経済が最優先されるようになった近年の日本社会では、政治というものは本来の品格をすっかり失ってしまっている。昨今の政治家の姿に微塵も品格が感じられないのはその故でもあるのだろう。喩えは悪いが、「士農工商」の時代が「商工農士」の時代になったと言うべきなのだろう。

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