時流遡航

《時流遡航255》日々諸事遊考 (15)(2021,06,01)

(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――⑥)
(先人の手記を手に足跡を辿る)
 心に残る旅を実現したいと思う人にとっては、芭蕉の「奥の細道」やその同行者曽良の「曽良日記」、さらには司馬遼太郎の「街道を行く」などに象徴されるような、著名な紀行文や旅日記を手にしながら、それらの筆者の足跡を辿ってみるのもひとつの方法ではあるでしょう。この種の旅の手法は古今東西にわたって多くの人々が実践し続けてきたものですから、むろんそこには本来的な意味での独創性などはありません。しかしながら、時代が推移するに連れて、それらの紀行文や旅日記中に描き記された諸々の風物や民俗などは絶え間なく変遷を遂げていくものです。それゆえ、そのような類の旅を実践してみることによって、必ずやその時代ならではの新たな発見や感慨が生まれてもくることでしょう。
現代において「奥の細道」に述べられている道筋の一端を辿ったりしてみると、それを取り巻く自然環境や街並みの変容ぶりに愕然とさせられるものです。ただ、そんな状況にこの世の無常の摂理を感じ取り、ともすると忘れてしまいがちな己の生の旅路の本質を再認識してみるのも悪いことではないかもしれません。平安時代の文人僧侶、能因や西行の道行きに憧れ陸奥の旅路に足を踏み入れたという芭蕉や曽良ですが、我われにとっての「現代」にも相当する「元禄」という最先端の時代に彼らは立っていたわけです。そんな訳ですから、彼らもまた、陸奥の風物が遠い平安時代のそれとは大きく変貌してしまっている状況に驚きや戸惑いを禁じ得なかったことでしょう。奥の細道の冒頭にある「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」という有名な一文も、そんな芭蕉の内面の想いを象徴しているのかもしれません。さらにまた同著が旅先で遭遇した一連の事実を有りのままに述べ記しただけの紀行文ではなく、多分に現実とは異なる創作性の強い要素を折り込んだ作品になっているという事実なども、そんな背景があってのことだったのでしょう。
この身もまた、様々な先人の足跡を辿りながら想い出深い旅をした経験を持っており、その一環として、「奥の細道」にも登場し現在も断片的にはあちこちに残る当時の古道の跡などを辿り廻ったりしたことなどもありました。むろんその折々に数々の興味深い体験を積みもしましたから、その際の胸中の想いなどをこの場で述べ記すこともできはします。ただ、あまりに名高い「奥の細道」の旅に纏わる余談の類はこの世に溢れるほど存在しています。それゆえ、ここでは、地元の人々の間以外ではごく一部のその道の専門家や愛好家にしか知られていないような、地味なものではあるけれど、それなりには感慨深くもある先人らの紀行に倣う旅の事例を少しだけ紹介させてもらうことに致しましょう。
(津軽半島にて松陰の旅を想う)
青函トンネルが開通するよりずっと以前のことですが、津軽半島の最先端に位置し、北海道の松前半島白神岬と向かい合う竜飛崎に出向いたことがありました。まだ23歳前後だった若き日の吉田松陰には「東北遊日記」という著作があるのですが、そこには、江戸留学中にロシア船が津軽海峡一帯に出没することを知り、その実状を把握するため、10歳年上の熊本藩士宮部鼎蔵と共に脱藩覚悟で同地まで往復した際の記録が記し残されています。松陰は安政の大獄によって、鼎蔵は池田屋事件によって1860年前後にどちらも早逝することになったのですが、昔日の彼らの道中に想いを馳せながら津軽の地を旅するのも意義深いことだろうと考えてみたからでした。松陰らが徒歩で同地を旅したのに対し、この身のほうは車を運転しての旅ですからある意味顰蹙ものではありましたが、そこは時の推移のなせる業と開き直ったりもしたものです。
 津軽半島根元の鰺ヶ沢や五所川原方面から、小ぶりの沼地や湖が多数散在する同半島西部を北上すると、十三湖という大きな湖の湖畔に至ります。「東北遊日記」の中で松陰が「真に好風景なり」と述べているのはこの十三湖一帯の風情豊かな光景にほかなりません。その静かで美しい水面の輝きを目にしながら旅の疲れを癒しもしただろう彼らですが、その前途に至難の道程が待ち受けていようとは想像もしていなかったことでしょう。この十三湖は幅100メートル余の水路で日本海とも繋がっており、現在ではその水路上には十三湖大橋が架かっています。今では十三湊遺跡となっているこの湖の西岸の一角は、かつては風待ち港などとも呼ばれ、遠来の北前船や地元の漁船・運搬船などの安全な寄港地としての役割をも果たしてきたのでした。湖を取り巻く自然林も素晴らしいことですから、時間のある方は新緑や紅葉の季節にのんびりと湖畔を一周してみるのも一興でしょう。
 十三湖畔から海沿いに進んで小さな半島の根元を横切り、一時碇泊地を意味する小泊集落を通過し、さらに数キロ海沿いに北上すると傾(かたが)り石という場所に到達します。現在ではそこからさらに国道が直接竜飛崎まで延びていますが、松陰が津軽を訪ねた頃はそこから竜飛へと通じる道はなく、彼らはその地点から細い川沿いの隘路を辿りながら険しい山岳地帯に分け入って行きました。そして深い谷間を遡上し、膝まで水に浸かりながら幾つもの沢を越え苦渋の末に算用師峠と呼ばれる峠に到達したのです。
記録によるとそれは旧暦の3月初頭のことで、峠の向こう側の下り斜面には2~3尺もの積雪が残っており、苦闘の末にその雪中を下ると、今度は大量の雪解け水が激流をなす谷川を何度もずぶ濡れになりながら渡らなければならなかったのでした。ほうほうの体で津軽海峡に面する三厩算用師集落に到着したという松陰らの執念の極みにはひたすら驚嘆するばかりです。現在では傾り石と三厩算用師集落間には全長12キロ余にわたる「陸奥松陰道」というハイキングコースが整備されていますから、歴史的旅の愛好者などは是非一度探訪してみるとよいでしょう。車を駆使しできる現代ても、東京からその地までを往復するにはそれなりの時間と体力を要しますから、国家的危機感と好奇心とのなせる業だったとは言っても、徒歩で江戸から津軽半島先端部までの往復を実践した彼らの意志力の強さには敬服するほかありません。
 傾り石から海沿いに車で5キロほど北上すると国道は急坂の続く険しい尾根道に入り、尾根筋に出たあと北に向かって下るとそこが竜飛崎一帯です。近くに松陰の詩碑も建つ高台の灯台敷地からは津軽海峡を挟んで20キロほど向こうにある松前半島南端の白神岬一帯を遠望することができますから、昔日の松陰らの胸中の深い感慨に想いを重ねてみるのもいいかもしれません。
ある初冬の日に再度竜飛崎を訪ねた折には、立っているのも困難なほどの強風が絶間なく吹き荒れ、西方の日本海上には激しく渦巻きながら上空の雲中にまで立ち昇る黒々とした数本の巨大な水蒸気柱が目撃されもしたものです。そしてその時、竜飛という地名はこの光景に由来しているに違いないと直感もしたような次第でした。

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