時流遡航

《時流遡航268》日々諸事遊考 (27)(2021,12,01)

(民主主義と専制主義の関係を考察する)
 衆議院議員選挙が終わって1ヶ月が経った昨今ですが、現在、世界各地においては、国家体制やその存続に関わる様々な問題が生じてきているようです。それらの問題全般のキーワードになっているのはほかならぬ「民主主義」という言葉なのですが、それが含みとする体制には、一筋縄ではいきそうにない何とも厄介な一面があるように思われてなりません。子どもの頃からごく当然のものとして慣れ親しんできたその言葉や概念ゆえに、それらの秘め持つ背景を深く考察することもなく、長い年月を過ごしてきました。しかし、この歳に至ってようやく、そんな己の軽薄な振舞いを反省するようにもなった次第です。
 現代日本に見るように、各種の問題は内在しているにしろ、比較的安定している政治的状況の下においては、「民主主義」の重要性をもっともらしく唱えることなど誰にとっても極めて容易な話でしょう。しかしながら、よくよく考えてみると、その言葉の背後に隠された人間社会の実相は、通常我われが想定しているほど明々白々なものではありません。
 民主主義とは、ある国やある社会集団に属する多様な人々がそれぞれに異なる自由な意見を持ち寄って集まり、全員で話し合い、忌憚なく議論を重ねたうえで最終的に全体としての見解や指針を集約し、それに従って皆が行動する基本体系のことを意味しています。全体としての最終的な意思決定をするに際して、多数決なるものが重要な役割を果たしていることについては、今更述べるまでもありません。その一方、民主主義に対峙するものとして、特定個人や特定集団の信条や思想を絶対視し、それらの指針に基づき国家や社会全体を動かす「権威主義」や「専制主義」なるものが存在しているのも周知の通りです。
 通常、民主主義と権威主義・専制主義とはまるで相反する政治的理念のように論じられ、現代の国際社会にあっては、民主主義を標榜する国家や社会のほうが平和で活力に富んでおり、文化的な水準も高いと評価されています。当然と言ってしまえばそれまでなのですが、その実態はそれほど単純なものなのではないのかもしれません。民主主義は素晴らしいとひたすら信じ込み、権威主義や専制主義を批判しながらここまで生きてきたこの身なのですが、近年の国際情勢や国内の政治状況を冷静に見据えるうちに、どうも両者は人間社会の宿命の生み出す表裏一体の存在なのではないかと感じるようになってきたのです。いささか大袈裟ではありますが、昨今の私には、それら両概念の対立が、人類という厄介な生命体に固有な資質の生みもたらす、矛盾も必然の特異な現象だとさえ思われてなりません。そこで、この場を借りていま少しこの問題の根底を覗き見ることにしてみましょう。
(民主主義という美言の裏には)
 いま、国民の誰もが自由に私見を述べられる国があったとしてみましょう。その国内で交わされる政治的な議論の内容は千差万別で、その意味では民主的なのですが、幾ら言論の自由が保証されているとは言っても、そのまま放置しておいたら何時まで経っても総体的な意見は纏まりそうにありません。そこでやむなく、俗に言う民主国家の定番である多数意見尊重主義によって政策が決定されるわけですが、実はそれが最も賢明な選択であるとはかぎりません。日常生活に追われる一般大衆というものは、何事につけても自ら深く熟慮を重ねた見識を持つことなどは少なく、安易にその時々の時流に乗ったり、もっともらしい他者の主義主張に飛びついたりしがちです。ポピュリズムとも称されるそんな庶民の動向がたまには最適な選択だったりすることもありますが、特異な自然災害や疫病の大流行などに象徴される想定外の事態に遭遇したり、突然の国家間係争のような非常状況に陥ったりした場合には、その種の判断が頼りにならないことも少なくありません。
 そんな不穏かつ不安定な社会情勢の下にあっては、民衆を力強くリードしてくれる主義主張や、それらを具体的に実践し、人々を的確に先導してくれる人物の登場がどうしても必要となってきます。ただ、非常時にあって一部の有識者や思想家などから提示される新たな主義主張というものは、本質的にはそれがどんなに優れていても一般大衆からは軽視乃至は蔑視され、世の片隅に追いやられてしまうことが殆どです。そのような状況下で敢えてその主義主張をもとに民衆を導こうとすれば、一定の組織力や政治力をバックにしてそれなりに強硬な手段に訴えるしかありません。むろん、一連のそんな流れが成功を収めることも多々あるでしょう。ただ、そのような状況の背後には、民主主義の負の側面、すなわち権威主義や専制主義へと通じる要因が見え隠れし始めることになるのです。
 本質的にはどんなに優れた主義主張でも、それが永遠不変の存在であり続けるはずはありませんし、また民主制度の下にあっては、一定数の民衆の理解と賛同がなければその国や社会を動かすこともできません。そのため、その主義主張を民衆の間に広く浸透させ、それによって社会を動かそうとするなら、一部の賛同者からなる強力な組織体制を築き、諸々のメディアに働きかけ、扇動的とさえ言ってもよい手法で民意を導き制御する必要が生じます。そしてそこにこそ、権威主義や専制主義へと通じる道筋が芽生えてくるのです。
 民主主義のもと多くの民衆の支持を得て生まれた政治組織といえども、一旦国政の運営権を手にした指導者やその傘下の組織体は、自らの理念や主張、さらには政権取得に伴って手にした様々な利権を極力維持し守ろうとします。また、そんな一連の流れによって利得に与る民衆がそれなりに現れることも事実で、利得を得た人々は、主義主張が異なるゆえに政権の恩恵に与ることのできない他派の人々を、たとえ内々ではあっても蔑視することになるでしょう。それは人間という生命体の深層心理に潜み宿る根元的生存本能と直結する問題ですから、絶対的な解決策など元々存在するはずもありません。
 もちろん、そうやって築き上げられた政権側が常に自己反省を繰り返しながら自らの政策の不備や過誤を正すことを忘れず、また当該政権のそれとは異なる主義主張にも一定の配慮を示す寛容さがあれば、曲りなりにも民主主義は体面を保つことができます。しかし、政権の主導者が自らの主義主張に心酔し、絶対不変のものとしてそれらが何時までも維持存続されることを願い、扇動された民衆や諸メディアがひたすらその擁護に走るならどんな事態になるでしょう。必然的にそれは権威主義や強権主義の誕生へと繋がり、やがては絶対的な専制主義による支配へと発展していくに相違ありません。詰まるところ、民主主義とは権威主義や専制主義を生み出す母体であり温床そのものにほかならないのです。中国やロシアなどに見る国家体制もそんな現実世界の延長上に位置しているに過ぎません。
 絶対解など存在しない世界の中にあって、個々人としての我われはどのように生きていくべきなのでしょう。たとえそれを信念の欠如と批判されようが、良い意味での日和見主義、すなわち、深い思索に裏付けられた主体的是々非々主義の道を貫くしかありません。

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