時流遡航

《時流遡航:234》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (20)(2020,07,15)

(あらためて「ポエム」というものの意義を考える)
 近頃は幾分理想主義がかった言論や提案がなされたりすると、「それはポエムだ!」という冷笑的な批判が行われることも少なくありません。しかもこの独特の言い回しは、SNSなどを介して若年層を中心に多用されているようです。その言葉の裏には、「それは現実性に欠けた綺麗事の世界の話で、自分たちの生活には無縁なのだ」という意味が込められてもいます。僅かでも詩歌の世界に触れ、そこに詠み込められている深い思いに些かの関心でも持ったうえでのことならまだしも、その類の表現体にはおよそ無関心な人々が偉そうにそんな言葉を吐いたりするのは甚だ不謹慎な話でしょう。詩人や歌人、俳人らはこの際少しくらいは声を上げ、ポエムを愚弄する輩を諌めたほうがよいのかもしれません。
 昨今の高等学校国語教育の現場などでは、文学や文芸作品の学習が論理的あるいは実務的文章表現と称されるものの学習と分別され、前者の学習課程は選択制になってきているようです。大学入学試験制度などもそれに合わせて変革がなされるみないなのですが、そんな制度を率先し立案導入した方々は、文学や芸術の世界は最早一部の人間にしか必要ないものだと自信をもって断言できるだけの、さぞかし立派な見識と信念をお持ちなのでしょう。日常的な業務遂行に際しても論理的表現能力が極めて高く、また実務的文章への対応処理においても合理主義を貫徹できるだけの傑出した能力をお具えであるに違いありません。少なくとも、意味不明で論理的矛盾だらけの紋切型発言で知られるこの国のお大臣衆などとは比べ物にならないほど、自らの言語力に絶対的な確信を抱いている方々なのだろうと推測されます。そして、そんな面々が教育行政界をリードする社会的状況のもとにあっては、「それはポエムだ!」といったように、詩歌の類を嘲笑する文言が流行し、それなりに人々を魅了し扇動してやまないのも当然ではあるのでしょう。
 ただ困ったことに、もしそうだとすると、今もその国の政権を率いる首相や諸大臣の発言の殆どは、ポエムそのものということになってしまうのではないでしょうか。しかも、本来のポエムが何たるかを真摯に学んだこともない方々の発する戯言の数々が全てポエムになってしまうとすると、皮肉なことですが、この国はポエムを詠む人だらけ、すなわち騙(かた)り屋の跋扈する修羅場ということになってしまいます。そのような状況の危うさを十分に見越したうえで、学術行政当局やその傘下の識者らが、論理的あるいは実務的な文章表現を重要視する国語教育の実践に舵を切ったというのならまだ話もわからないではないのですが、どうやらそうでもないらしいのです。現在この国において最も論理的かつ実務的言語表現能力を要求されているのは他ならぬ政治家諸氏のようですから、まずはそんな面々こそが率先して新課程の国語教育を受けてもらいたいと願う次第です。そうでなければ降って湧いたような国語教育の変革などまるで無意味なものになってしまいかねません。
 ツイッターに象徴されるように、諸々のSNS上での短い文言のやりとりが社会的に重要な役割を果たすようになってきている現在、本質的なメッセージを的確かつ端的に伝える素養は必要なものではあるでしょう。ただ、そのためには、誰しもが、限られた数の言葉だけで意味深い思いを発信する能力や、逆に他者の発する短い言葉の含みを十分かつ即座に理解する能力を磨き上げるよう努めなければなりません。ところが、さらに皮肉なことですが、そのような能力の基盤となるのは、他ならぬ文学表現や芸術表現の世界、より話を絞るとするなら、多くの人々が実利実益性とはおよそ無縁と蔑視しがちなポエムの世界だというわけなのです。それはまさに堂々廻りの事態との遭遇と言うしかありません。
(文学表現の象徴としての詩歌)
 英語で言うところの「ポエム」、すなわち詩歌の類というものは、文学的表現の世界の象徴的存在だと述べても過言ではないでしょう。小説や随筆、紀行文、文芸評論などでは、様々な技巧に富んだ文体やそれらを縦横無尽に組み合わせた長い文章によって、人々の暮らしぶりや善悪多様な事柄の交錯する社会的状況、さらには登場人物や筆者の胸中深くに渦巻く数々の思いなどが表現される運びになります。それらの作品を読み込むことによって、読者は、自然界から人間社会に至るまでのこの世の複雑な仕組み、ひいてはそこに渦巻く諸々の人生観や価値観などを学び知らされることになるのです。
しかし、活字離れが進んでいる昨今の若年層などにとってはとくに、小説、随筆、評論といった類の作品は親しみにくいものではあるのかもしれません。そんな人々に向かって、「文化的素養を高めるためには、もっと書物を読むべきだ」と声を上げるのは容易ではありますが、話はそう単純ではありません。各種映像媒体やそれらに基づく視聴覚的な情報伝達体系が飛躍的に発達した現在にあっては、その影響を受けて書籍類のような文字表現媒体の相対的な利用度が減少するのは必然の流れだからです。対応が簡便でしかも多機能な情報伝達システムに飛びつくのは、自然な人間の姿でもあるでしょう。
 ただ、一国の文化の長大な足跡というものは、古来継承蓄積されてきた諸文献を通してしか確認できないものがほとんどです。なかでも文学作品の類の内容把握やそれらの深い理解ともなると、視聴覚を超えたところに存在する心的な機能になおも依存するしかありません。現代の先端的な映像技術や音声表現技術をもってしても、伝統的な文字文化の役割を完全に代替をすることは未だ不可能だからです。
そうだとすれば、やはり我われの誰もが、概要だけでも古典から現代の作品に至るまでの流れを学ぶようにするしかありません。自らの内面的思考を的確に表出したり、それらをしっかりと後世に伝え遺したりするためにも、まだまだ文学的な素養は不可欠でしょう。そう考えてみると、高校生などが様々な文学や文芸作品について必要最小限の基礎学習を積むことは重要です。教育者のほうも、受験など超越した観点に立ってそれらの意義や内容を丁寧に教え、生徒らの興味を呼び覚ますように努めるべきでしょう。
 端的に述べますと、世に伝わる古今東西の文学作品の体系を集約し、そのエッセンスを絞り出すべく極力短い言葉で表現しようとしたものこそがポエム、すなわち詩歌の類に他なりません。高名な詩人らが世人の心に多大な感銘をもたらしてきたのもそのような背景があったからなのです。万葉や古今の和歌に始まり近現代の詩歌に至るまでの諸作品が、日本文化の根底的思想とその脈々たる流れを形成してきたことを思うと、この国においても「ポエムだ!」などと冷笑することなく、掛け替えのないそれらの意義を再評価すべきなのでしょう。この国の詩人たちには、新型コロナウイルス流行により社会が混迷している今こそ、素晴らしい詩歌を詠んで人類の行く手を希望の光で照らし出してもらいたいものです。

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