時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (14)(2020,04,15)

(作物の原初的有機栽培法について思いを馳せらせる)
 新型コロナウイルスへの対応がその象徴であるように、衛生上の問題について現代人は極めて敏感です。もちろん、危険度の高いコロナウイルスの拡散に備え、医科学的な視点から十分な対応策をとることは重要ですし、住民同士が連携し合い冷静沈着な行動をとることは不可欠です。ただその一方で、過剰とも言えるほど一面的に恐怖感や危機感を煽り立てる昨今の社会状況についてはいささか再考の余地が必要かもしれません。ここは今一度理性的な視点に立って、刻々と変わる現下の諸状況に対峙していくべきでしょう。極端なまでの衛生意識の高まりに伴い、一般家庭でも多種多様な殺菌剤や消毒剤が常用されるようになった現在、そんな環境下で暮らす我われは、かつては誰もが自然に身につけていたような免疫力の多くを失いかけている可能性さえもあるのです。 
 昨今の人々は、有機栽培、すなわち有機肥料のみによって栽培された農産物を目にしたりすると、とても健康的で新鮮な作物だと信じ即刻それらに飛びついてしまいがちです。偶然そんな状況を目にした折などに、嬉々としてその種の産物を購入している人たちに向かって、「有機肥料を使った有機栽培っていったいどのようなものなのでしょうか」と訊ねてみると、返す言葉に詰まってしまう人が少なくありません。なかには、「健康に悪影響のある人工的化学肥料の類や有害な農薬などを一切使用していない、とても衛生的な栽培法のことを言うんじゃないですか」と、一見もっともらしい返答をする人もあったりはします。だが、そこには、人工的化学肥料や化学薬品に無縁な農業というものが実際には何を意味しているのかを自覚している様子はほとんど見られません。
 遠い昔、半農半漁の離島の村において原初的な有機栽培農業を目の当たりにして育ち、中学生時代まで日常的にその作業を実体験もしてきた身としては、現代のそんな状況に接したりすると、心中密かに少々意地悪な思いを抱いたりもしてみたくなるのです。ただ、元々の有機農業なるものが如何なるものであったかを述べる前に、当時の農漁村ではごく自然なものだった生活環境について一通り述べておく必要はあるでしょう。
私が育った離島などでも今では下水道が完備し水洗トイレが普及していますが、私が暮らしていた頃の家々では、俗に「ポッチャントイレ」と呼ばれる便槽付き汲み取り式トイレが設置されていて、そこで大小一切の用足しを済ませていたものでした。現代に見るようなロール式のトイレットペーパーなどは皆無で、ほとんどの家では読み古した新聞紙や雑誌、使い古しの雑紙類などを適当な大きさに切ったものを重ね置き、それらを揉みほぐしては排泄後の拭取り処理に用いていました。使用後の紙は通常そのまま真下の便槽に投げ落としていたものです。その構造上、便槽内に溜まった排泄物は丸見えで、折々多数の蛆虫が蠢く姿さえも見て取れたりもしました。もちろん、トイレを出たあと備え付けの手水鉢や専用の容器に貯め込まれた水などで手を洗ったりはしたものですけれども……。
 こんなことを書くと、「あきれ果てるほどに不衛生な環境で暮らしていたのだなぁ」と、不憫に思ってくださる方もおありでしょうが、だからと言ってそんな環境下で育った者たちがひどく健康を害すような事態に陥ったわけではありません。実際には皆元気に成長し、今でも元気に暮らしているのです。むしろ、そんな育ちを通して雑菌類に対する抵抗力を身につけたばかりでなく、いざという時に役立つ生活の知恵をも具えることになったものです。ちなみに、私のような育ちの者は、昨今のトイレットペーパーや紙製品不足のような騒動が生じてもそれに動じることはありません。
万一の場合には、昔やっていたように読み古した新聞紙や雑誌雑紙を適当に切ってトイレに備え置き、使用後の紙は大き目のポリ袋などにでも入れて一時保管し、一定量溜まったら土中に埋めたり焼却処理をしたり、燃えるゴミとして袋ごとゴミ収集車に運んでもらったりする知恵が働くからです。短期的ならそれで十分対応できますし、大災害時に水洗トイレそのものが使用不能に陥ってしまった際などには、大きく丈夫なポリ袋を2~3枚重ねたものを便座の下に取り付け、間に合わせの排泄物処理の工夫をすることくらいこの身には造作もないことなのです。
(育てた作物を教師に進呈)
一昔前の片田舎の町村には、当時既に都市部には普及していたバッキュームカーの類も、また、それらを駆使して定期的に各戸を廻り排泄物を吸引処理してくれる清掃事業者なども存在していませんでした。したがって便槽が一杯になってくると、各家々は自力で汲み取り作業を実践するしかありませんでした。特別な事情があって自己処理ができない家の場合などには、近所の人が処理作業を代替してあげたり、人を雇ってその作業に当たってもらったりしたものです。我が家の場合は祖父が汲み取り処理を行っていましたが、中学生にもなると率先して私がその作業に当たるようになりました。木造りの肥樽を用意し、長柄のついた専用の木製大柄杓で排泄物を汲み取り、その樽の中に注ぎ込んだものです。
当時、村の殆どの家の裏手には自給自足用の畑があって、そこでは各種野菜や芋類を栽培していました。むろん我が家の裏手にも畑があって、カボチャ、キュウリ、ヘチマ、ナス、オクラ、サヤエンドウ、ソラマメ、キャベツ、白菜、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモなどを、少量ずつながら自家用として育てていました。そんなわけですから、肥樽の中が一杯になると、それを裏の畑へと運んでは、育成中の作物に直撒き肥料として撒布してやったものです。樽が空になるとまた便槽へと戻り、溜まった排泄物が減少するまで一連の作業を何度も何度も繰り返しました。当然、作業中にそれなりの異臭はしましたし、時々桶や柄杓から跳ね飛んだ飛沫が身体のあちこちに付着することはありましたが、それが生活を維持するために不可欠なことだと思えば別段気にもなりませんでした。お蔭で今でも汚物の処理などは厭いません。畑の様々な作物の根の付近に撒かれた排泄物、すなわち栄養たっぷりな有機肥料は、しばらくすると土壌中に染み込んだり分解吸収されたりして畑の土と同化し、異臭はまったくなくなっていったものです。そしてそうなると、どっぷりと排泄物を撒いたあたりの土を手で直に掴んでも何の問題も起こりませんでした。その結果として、栽培作物がしっかり育ち、日々の生活の糧となってくれたのです。
 中学校でのトイレの汲み取り処理は、家庭科の授業の一環である農業実習の時間に生徒らが行っていました。皆で汲み取った「有機肥料」入りの樽を学校の付属菜園まで運び、そこで栽培中の作物に養分をたっぷりと施してやるわけです。しかも、そこで育った見事な野菜類は校長先生以下の先生方の家庭に進呈されたものでした。そのことを見越し、生育中のキャベツなどに真上から大量の栄養素を注ぎかける悪童、いや賢童などもいたものです。

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