時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行記――その概観考察(2)(2018,01,15)

(「哲学」という言葉の起源とその学術領域)
 「philosophy」、すなわち哲学というものが日本に導入されたのは明治時代になってからのことでした。「智を愛すること」という意味を持つその原語をどのように邦訳したらよいものか、先人達は随分と苦労したようです。当初はそのまま「愛智」という訳語を用いようともしたらしいのですが、それでは少々重厚さに欠けるとでも考えたのでしょう。「心から願い求める」という意味の「希」という文字と、「見識が高く物事の道理に明るいこと」という意味の東洋思想古来の「哲」という文字とを組み合わせて「希哲」という造語を行い、それに「学」の一文字を加えて「希哲学」という訳語を創り出したらしいのです。ところが語呂や語感がいまひとつ当時の人々の感性にそぐわなかったらしく、いつしか「希」の字が削除され「哲学」と称されるようになっていったのでした。 
ただ、そうなると、「見識が高く物事の道理に明るい人々の学問」とでも受け取れるような、お高くとまった響きを持つ言葉になってしまい、庶民にはおよそ無縁な存在となっていったようなのです。「哲」なるものを「心から願い求める」という未到達過程に立つ視点が、始めから「哲」だけ、すなわち「見識が高く物事の道理に明るいこと」という既に達観され尽くした視点に変容してしまったのですから、「哲学」という翻訳表現そのものがもともと問題だったと言うべきなのでしょう。敢えて本来の意味を残し伝えるとすれば、「愛智学」とか「求智学」くらいの訳語のほうがまだよかったのかもしれません。
 明治時代の先人たちが日本へと西洋哲学を導入するに際して、ラテン語、ドイツ語、フランス語、英語などで記述された原書を日本語に訳すのは極めて困難な作業だったに違いありません。原書を読みこなし、その概要を理解するだけでも容易なことではなかったはずだからです。それまでの日本には存在しなかった新たな概念を表す外国語を一語一語日本語に置き換えなければならなかったわけですから、その作業の困難さたるや想像を絶するものであったに相違ありません。そのためには膨大な量の新たな専門用語創出の過程が不可欠だったことでしょう。それまでの仏教の諸経典や四書五経などに基づく東洋的思想が「東洋哲学」と呼ばれるようになったのも、「哲学」という新語が誕生したからこそにほかなりません。
 またそんな状況下にあっては、諸々の伝統的な東洋思想の記述用語である漢語が、西洋哲学書の邦訳における新造語の捻出に大きな影響を与えたのは当然のことでした。その流れに従うならば、西洋哲学の和訳書が一般の人々にはむろん、一定水準の学識を具え持つ研究者らにとってさえも難解なものになってしまったのは、やむを得ないことだったのかもしれません。ただ、そのために、西洋哲学の翻訳書が必要以上に世俗離れした、悪く言えば、どこかお高くとまった存在になってしまったことも否定し難い事実ではあったのです。一般人にはまるで近寄り難い学問領域であることを誇示するような雰囲気が漂うようになってしまったと言ってもいかもしれません。もう遠い昔のことなのですが、私がたまたま目にしたある西洋哲学書の邦訳文中には、原書の趣旨からすると、「机の上にリンゴが一個あるとする」と述べれば十分なところを、わざわざ「矩形の机上の平面の一角を単一の林檎が独占的に領有している」といったように記述したものなどまでがありました。ごく普通のことを表現する部分の文章でもこの有り様だったのですから、より高度な内容を述べた核心部の訳文に至ってはとてつもなく難解であったことは言うまでもありません。
 意地悪な見方をすれば、その翻訳に携わった哲学者自身がその原書の内容を十分理解していたのだろうかという疑問さえも湧いてくるところではあったのですが、なお未熟な思考力や知識しか持ち合わせなかった当時の私には、そんな疑義を抱いたりする余地さえもありませんでした。もしかしたら、その翻訳書の出版に携わった編集者なども訳文を読んで頭を抱え込んだりしたのかもしれませんが、小説やエッセイなどの翻訳文の場合と違って、自ら加筆修正をしたり理解困難なところの改訳や再訳を申し出たりすることなど、おそらく不可能であったのでしょう。なにしろ、相手は国内では数少ないその道の権威とされる専門家だったはずなのですから……。
(特別な文系学科とされた哲学)
 西洋哲学が日本に導入される過程の中でもうひとつ問題だったのは、前述したような経緯があったために、哲学とは文科系の、それも文学部を中心とする分野の特別な学問だとされてしまったことでした。もちろん、それが不適切な状況だと感じていた研究者もあったことでしょうが、そのような存在はごく少数に過ぎませんでした。そして全体的な傾向として、そのような状況は21世紀に入る前後まで続いてきたのです。西洋の学問が広く日本に普及し始めた明治期において、文系・理系という考え方が確立され、それら両者はまるで別々の学問領域だとされてしまったことも哲学にとっては不幸なことだったのかもしれません。哲学は文系の学問であり、文系の中でも特に文系色の強い科目であるとされるようになってしまったからです。それゆえに、哲学の専攻を望む学生は数理系とは無関係とされる文学部や社会学部のなかの哲学専攻学科に進むのが普通となったのでした。
その結果、日本においては、大学で哲学を志そうとする学生も、またそれらの学生を指導する哲学専攻の多くの大学教師のほうも、無意識のうちに哲学にとって数理科学は必要ないものだと考えるようになってしまったらしいのです。高等文官とも称された旧帝国大学文科系学部出身者などが国内の政界や法曹界、教育界を仕切っていたかつての時代はそれでもよかったのかもしれません。しかし、数理科学の重要性が広く認識される時代が到来した近年にあっては、哲学というものが数理科学分野とは無縁な学問領域に属するもので、何の生産性にも繋がらない無益で無粋な学問だとする誤解だけは解消していく必要があるでしょう。
 世の片隅あってささやかな筆を執る一介の門外漢ライターに過ぎない私が、今更述べるべき類のことではないのですが、哲学とは、もともと文系・理系の枠を超え、学術領域全体に通じる総合的学問です。ギリシャ哲学に主な起源をもつ西洋哲学は、もともと人間の理性をもとに冷静に自然界や人間社会の諸事象の原理や法則を考究し、さらには新たな事象の発見や新原理の創造と発展を目指そうとしたものでした。従って、哲学は、ギリシャ時代におけるその出発点からして、数理科学、なかでも数学や基礎論理学的な思考の世界とは切っても切り離せない存在だったはずなのです。逆にまた、数学とは深い言語思考あっての学問、すなわち、「数学とは言葉である」と換言してもよい領域であったのです。

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