時流遡航

《時流遡航238》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (24)(2020,09,15)

(オンライン授業を絡めて初等教育の問題を考える)
 新型コロナウイルスの流行はなお止まるところを知らず、学校教育の世界などではオンライン授業が実践され、そのIT技術活用の教育手法のもつ意義がそれなりに高く評価されるようになってきています。またその一方では、オンラインシステムによるテレワークが定着し始めたことにより、人工的時空に覆われた都会生活から、まだそれなりには自然環境豊かな時空の残る地方への移住を試みる人も増えてきました。ヴァーチャルリアリティ時空を含む人工的時空とそれがもたらす知識情報を優先するか、あくまでリアリティな時空とそれに基づく知識情報を優先するかの選択は、人それぞれの社会的立場や生活環境の違いによって大きく左右されがちです。極端にどちらか一方に偏ることなく、折々の状況の下において臨機応変に振舞いながら、両者間のバランスを適度に保つことが重要なのでしょうが、それは口で言うほど容易なことではありません。
時間空間的な取捨選択の過程を経て蓄積された大量の知識群や、絶え間なく生み出される諸々の抽象的概念の類を効率よく習得するには、近年極めて進化を遂げたオンラインシステムを利用するのが最適でしょう。国内津々浦々にまでそのシステムが完全普及した暁には、従来指摘されてきたような「知識教育」という一面についての地域的格差はそれなりに解消されるかもしれません。どのような片田舎に住んでいても、学ぼうとする意欲さえあれば、幾分リアリティに欠けるところはあるにしても、都市部在住の著名な教育指導者らの名講義などを受講できたりもするからです。そう考えてみますと、各種映像やヴァーチャルリアリティ画像使用の教育などは良いことずくめのようにも思われますが、現実はそう単純ではありません。意外なことに思われるかもしれませんが、場合によっては、自然豊かな地方での教育のほうが都会での教育よりも好ましいという逆転現象が生じてくる可能性さえもあるのです。むろん、それは悪いことではありませんけれども……。
人間が母なる自然界から完全に切り離され、人工的時空やヴァーチャルリアリティの空間のみによって完全支配された世界の中に生まれ、誰もがそのままそこで生涯を終えるような時代がくれば別ですが、それは当面ありえない話です。無窮に広がる大宇宙の存在を全人類が認知するようになった今、この世に人工物以外の存在など皆無だと信じさせようとしてみたところで、そんなことは到底不可能な話です。もちろん、将来、我われの五感や頭脳の人工的制御技術が飛躍的に発達し、誕生したての乳児にその技術を施せば、その子は成人しても現実の大自然の存在を体験することなどまるでなく、そのままその生涯を終えてしまう事態さえも起こったりすることでしょう。もしかしたら、生命体が生命体である由縁の「生死の概念」そのものまでもが消え失せてしまうかもしれません。
しかし、そのような変容を遂げた存在は、なお人間の姿形を留めていたとしても最早人間などではありません。SFの世界に見るような不老不死の身体を得たとしても、それは完全なロボットか異次元の人工生物以外の何物でもないことでしょう。人間をはじめとする地球上の全ての生命体は、どう足掻いても自然との関係を断ち切ることはできません。徹底した唯物論的立場に身を置き、如何なる生命体であっても長い過程を経て宇宙の原初的物質から誕生したものにほかならないと考えてみるにしても、結局は大自然の摂理にその根源を委ねているだけのことに過ぎません。人間の知力の限りを尽くしつつ、様々な利害の交錯する自然界の諸事象に挑むこと自体は重要なことですが、それは自然の力を軽視したり排除したりすることではありません。真の意味で人が自然と共生するには、教育的な観点のみに話を絞って考えるとしても、初等期の自然体験が不可欠なものとなるのです。
幼少期に大自然相手の農林業や漁業の基本をじっくりと体験しながら育ち、山海の動植物類との日々の戯れを通してそれらの生態を深く学び、さらには折々襲いくる暴風雨や豪雪などの自然の猛威を直に体感することによって、子どもらの心身は大きく成長していきます。昨今の都会での教育に見られがちな、単なる知識の伝授とは異なる要素がそこには存在しているのです。それは諸事象の奥を深く探究するための素地養成にも繋がる重要なプロセスなのですが、過度な受験競争の高まりによって近年はそのことが疎かにされるようになったのでした。その結果、自らの意志で自由奔放に枝を伸ばす自然の「大木」にまでは成長することなく、人為的な手入れが行き届き見栄えだけは素晴らしい「盆栽」のままで終わってしまう学生が増えるようにもなってしまったわけなのです。もちろん、盆栽には盆栽の役割がありますから、その存在意義を全面否定するつもりはありませんが……。
ただ、オンラインシステムの普及により、従来は都会育ちでなければ習得の難しかった類の知識が国内の何処にあっても学べるということになると、俄然、自然豊かな田舎での初等教育時の生活体験が見直され、その意義が再評価されていくのは必然の流れでしょう。それはまた、将来の日本の発展存続にとっても決して悪いことではありません。
(離島での生活体験重視の親も)
 昨年、鹿児島のある離島の小集落を知人らと3人で訪ねたことがありました。その折のことですが、下船直後に予約してあった宿屋に所在確認の電話を入れると、ごく自然な標準語を話す受け手の瑞々しい話し声が響いてきました。「私はここでお世話になっている者ですが、いま宿主夫妻が不在なので代わりに私がお迎えに伺います」とのことだったので、暫く待っていると不意に現われたのはまだ幼さの残る男の子でした。しかし、その応対ぶりは実にしっかりしていて、丁寧かつ的確なその言葉遣いには同島特有の訛りなど全く有りませんでした。部屋に案内され一休みしていると夕餉の時間になったのですが、何と先程の男の子が、もっと幼い感じの男の子と共に次々と料理を運んできてはそれを手際よく並べ、さらにはお茶までいれてくれたのです。お礼を言いながら年齢や学年を訊ねると、何と小学6年生と4年生だとのことで、我われのほうが驚いたような有様でした。 
 あとで懇意になった宿の女将にその子たちの事情を訊ねてみると、彼らは東京育ちの小学生で、現在は全校生徒30人足らずの島の小学校に通学中なのだとのことでした。子どものうちに自然豊かな土地でせめて1~2年間くらいは実生活体験を積ませ、また、様々な人々との出合いを通して社会的見聞を広めさせたいとの親の意向で、2年間ほど彼らを預かっているのだそうなのです。その男の子らはすっかり離島の生活に溶け込み、地元の子どもらと共に、日常的に農業魚業などの大人の仕事の手伝いもしているというのです。親たちは有名省庁の官僚なのだそうですが、過保護な家庭の多い東京にあってなかなかの見識の持ち主と内心深く感心しながら、彼らの成長を願ったような次第でした。

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