時流遡航

《時流遡行》コンピュータから見た人間の脳(過去の講演録より)――(5)(2017,03,15)

  (脳のメカニズム解明に伴い浮上する諸問題)
このような脳のメカニズムが解明されてくると、従来とは違った意味での偏差値教育の欠陥が浮上してきます。たとえば、常々偏差値が低いと評価され続けている生徒の脳は、どんなに高い潜在能力を秘めていたとしてもその評価に応じた機能しかしなくなり、やがて潜在能力自体が失われていくことになります。また、現在の教育制度のなかで、生徒達は宿命的ともいうべき受験戦争を勝ち抜かなくてはなりません。そのため、小学校から高校までの試験のたびごとに、易しい問題から手をつけてなるべく高得点を得ようとします。いっぽう、教師らのほうも、無意識のうちに、「易しい問題からやりなさい。難しい問題から解くのは時間のロスで、最も下手な対処法です」などと指導することになるわけです。
そんなことを小学校、中学校、高校の合計12年間もやっていたら、いったいどういうことになるでしょうか。人間の脳のバイオコンピュータ回路には、生来、非常に難解でチャレンジングな問題に対応する機能も具わっているのです。ところがその部分を使わないと、肝心の回路が退化してしまうのです。チャレンジングな問題に挑むための回路をせっかく持って生まれても、気がついたときにはその思考回路は機能と活性を喪失しているんです。
何とも怖い話ですが、非チャレンジングな教育というものは、チャレンジングな生き方をする能力をも完全に退行させてしまうのです。ただし、TV番組などで当今大流行のパズルじみた難問奇問をスパルタ的なやりかたで教え込めばよいというわけではありません。さらにまた脳というバイオコンピュータのもうひとつの特性は、マイナスの連合性をもつことです。具体的な例でいうと、先生が嫌い → 数学が嫌い → 学問が嫌いとなっていくような思考推移の構造ですね。
 かつて大学で数学を教えていた頃の話なのですが、専門課程に進んだ学生の多くが「数学科以外の学科だったらどこでもいいから転科したい」と言いだすんです。数学の専門研究の分野においては、いわゆる「受験の数学」的な能力とはまるで異なる能力が要求されるんですね。名門受験校出身者は入試では高得点を取って入学してくるのですが、統計的にみると、一部例外はあるにしろ、専門的な研究の世界に進む者は割合少ない。むしろ、専門家になるのは地方の普通の高校の出身で、合格点ギリギリの成績で入学してきたような学生が多いんです。彼らは独自の方法論を身につけているからなのかもしれません。
 近年、有名大学の数学科や物理学科に進学してくる学生には、受験問題では高得点を取ったとしても、真の意味でのチャレンジングな課題に対する思考回路をすっかり退行させてしまっている者も少なくありません。数学や物理の専門研究の場では、解決するのにどれだけ時間を要するかわからない問題、誰に相談し何を参考にしても構わない問題、正解が存在するかどうかさえも不明な問題、さらには意味不明な多重解がある難問などに立ち向かわねばなりません。チャレンジングな回路を退行させてしまった学生は、そういう問題に対応する能力も気力もありませんから、他の学科に移りたい言い出すわけなのです。
時折、客員講師として東京芸術大学に出向き院生相手に集中講義をすることがあります。何らかのかたちで芸術的発想に役立つような数理科学の思考法とか、コンピュータサイエンスの原理や技術とか、数理哲学的な概念やそれに沿う物の見方などを織り交ぜながら、一風変わった講義をやっています。建前上は認知科学という名目の講座なのですが、まあ、実際には何でもありの内容ですね。その藝大の院生らと関わるうちに面白いことがわかってきました。数学は大嫌い、物理と聞いただけで頭痛がするというのが藝大生の相場だそうなんですが、実際に彼らに接してみますと、本当は有名大学の理学部生などより数学や物理研究の資質があるのではないかと思われるような学生がいるんです。受験戦争のなかで数学や物理が嫌いになってしまったのでしょうが、本質的な思考能力はそのような学生らのほうが高いようにも思われてなりません。実際、私の講義を受けてくれた院生のなかには、藝大修士課程を終えたあと東工大に移り数学を専攻した者もあったりしました。
(損傷した右脳が奇跡の回復を)
「脳は意欲で働くバイオコンピュータだ」ということに関して、松本元さんから伺った話は深く心に残っています。松本さんはMITでも研究をなさっていたので、向こうでも同様の事例報告に接しておられたようですが、ご自分の実体験談として、次のような興味深い事例を紹介してくださいました。当時筑波大学付属高等学校に通っていた松本さんの知人のお子さんが交通事故に遭いまして、右脳をひどく損傷し集中治療室に担ぎ込まれたのだそうです。瞳孔も開いており、気管を切開して酸素を送る状態で、右脳が完全に損壊していたため、医者からは、そのまま植物人間になる可能性が高く、たとえ意識が回復しても半身不随の状態でしょうと冷たく宣告されたそうなんですね。
ご両親はすぐに松本さんにその絶望的な状況を報告されたんだそうですが、MITでの研究中、脳の損傷者が奇跡的に復活した事例を度々見てきた松本さんには、一瞬閃くものがありました。そこで、そのご両親に向かって、「医者から何と言われても、騙されたと思ってまずは自分の話を聞いてほしい。脳というものは、損傷をうけたあとすぐその場で刺激を与えずに時間をおいてしまうと回復不能になってしまう。意識不明だろうが何だろうが、手足を擦ったり語りかけたりしながら、お子さんが自分達にとってどんなに大切な存在であるかを、心底愛情を込めて伝えるようにしなさい。無反応の絶望的状態に見えても、脳細胞は必ず見えないところで活性反応を持続しているはずだから、そうやって脳に刺激を与え続ければ、回復の可能性は十分あるはずなので……」と伝えたのだそうです。
医者のほうは「やっても無駄ですよ」と断言したらしいのですが、そのご両親は松本さんの指示を忠実に守りました。松元さんはニューラルネットワークの研究を通して、人間の脳細胞というものは他の部分の細胞と違って代替復元力が強いことを知っていたんです。脳細胞だけは、原形質のアメーバみたいに非常に強い復元活性力を持っており、残された組織部分によって損傷部を代替する機能が再生されるらしいのです。
まだ医学的に完全に証明されているわけではないのですが、大脳でも小脳でも未使用領域が使用領域の何倍も存在することからも推測されるように、人間をはじめとする諸動物の脳だけは不慮の事態に対する適応能力が極めて高いようなのです。やがてその高校生の身体に奇跡が起こりました。3ヵ月後には絶望視されていたその高校生の意識が回復したのです。そして、医者の反対を押し切って右脳が欠損している状態のまま筋肉トレーニングを開始すると、なんと7か月後には歩行ができるようになったというのです。

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