時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(5)(2018,12,01)

(「1」という数の根幹を探り理論の本質を考える)
 自然数をはじめとする数値と単位(類概念)の関係について述べてきましたが、そもそも「1」という数字の意味するところはどのようなものなのでしょうか。幼稚園児でも知っているそんな当たり前のことをもっともらしく取り上げるなんてどうかしている――多分そんなふうにお感じの方も多いことでしょう。
でもこの「1」という数字、よくよく考えてみるとなかなか厄介な存在なのです。「リンゴか1個ある」などと誰もが安易に述べはしますが、厳密な意味で、色、形、大きさ、重さなどがすべて同じのリンゴなどこの世には二つと存在していません。まして、人間や犬猫、家畜類、さらには諸々の野生動物に至っては、たとえ双生児であったとしても完璧な同一個体が複数個存在することなど絶対にありません。そうしてみると、「リンゴが1個ある」という表現に象徴される「1」という数値は、特定の「類」の存在を前提としたとても抽象的な概念だということになります。
リンゴという「類」だけを考えてみても、大きくよく熟して色づきのよいものから青くてごく小さな未成熟状態のままのものまでがありますし、その種類も多種多様なわけですから、それら個々の異なるリンゴを「1個」と数えることは随分大雑把な話ではあるのです。大きく立派で見栄えのよいリンゴとその10分の1ほどの青くて小さな未成熟リンゴとを、どちらも「1個」と数えることに幼児らが違和感を覚えるのは当然かもしれません。そんな場合でも、大人のほうは別段深く考えもせず双方のリンゴを「1個」と数え、その妥協的な思考を当然のこととして受け入れます。大きいほうのリンゴを基準にして小さいほうのリンゴを10分の1個と数えることもなければ、逆に、小さいほうのリンゴを基準にして大きいほうのリンゴを10個と数えることなどもありません。
そう考えてみると、「1」という数値はやはり極めて抽象的な表現様態だと言えるでしょう。「1」という数の厳密な定義を問われたら、誰もがその答えに窮してしまうか、「1は1なんだよ!」というトートロジー(同語反復)に陥ってしまうかのどちらかでしょう。これ以上の深入りは避けることにしますが、「1」という数をはじめとする自然数の定義というものは基礎言語学や数理哲学上の難解な問題の一つにほかなりません。また、「1個のリンゴ」という表現をある理論(抽象概念)に見立てれば、大小かつ多種多様なリンゴの数々は、その理論が立脚する現実様態(具体的事象)に相当することになるでしょう。
そこで、この際ですから、いましばらく「リンゴ1個」という抽象的表現を事例にしながら、理論というものの本質を考えてみることにしましょう。ただし、これは、できるかぎり話を単純化し比喩的に論理的思考様態の核心に迫るための便法であって、本格的な意味での論考ではありませんから、その点だけはあらかじめ承知しておいてください。
(リンゴ1個を理論に譬えると)
 今ある人が、リンゴというものは多種多様で大きさや形にも差違があり過ぎるので、「1個」という概念(理論と考えてください)で取り扱えるリンゴの範囲やその代表的なモデルとなるリンゴの様態(標準リンゴ)を提示してみたいと思い立ったとしてみましょう。しかし事はそう容易ではないのです。いざその課題に取り組もうとすると、大きさ、重さ、色艶、形状、酸味、甘味、歯応えなど様々な要素への対応がありますから、それらを総合的に勘案してリンゴ1個の標準様態を導き出さねばなりません。ところが実際問題としてそれは至難の業であり、たとえ何かしらの標準様態を導き出し得たとしても、その結果がリンゴ類全体の仔細かつ現実的な掌握に役立つとは到底考えられないのです。
 そこで、その人は、取り敢えず視覚的に見て誰もが認識容易なリンゴの大きさのみを基準にし「リンゴ1個」の標準概念を策定してみようと考えました。その場合に自ずと登場してくるのは平均の概念、より格好をつけた言い方をすれば、高校数学などでその基礎を学ぶ正規分布(ガウス分布)の理論に見るような統計学の概念です。ますは多種多様で大小様々な多数のリンゴのサイズを調べ、そのデータを基にサイズを横軸に個数を縦軸にとった正規分布曲線を導き出すことになるでしょう。また、それによって「リンゴ1個」の平均的なサイズを把握し、その標準概念を提示することもできるでしょう。むろん、その場合、異常なまでに巨大なリンゴや極端に小さなリンゴ、すなわち、偏差値が極度に高か過ぎたり低く過ぎたりし標準偏差値内に収まりきれないリンゴは、「1個」という標準概念(標準理論)から捨象されることになります。逆に言えば、大きく標準値から外れるサイズのリンゴを捨象することによってその種の概念(理論)は導出されるわけなのです。
 ところがどうでしょう。人間とは何とも勝手なもので、当初の意図はどこへやら、異常にサイズの大きなリンゴのほうを「1個」の理想モデルとすること、すなわち、平均から極端に外れた理論を高く評価するように突然指針を変更したりもします。学校教育現場で見られる異常なまでの高偏差値重視の指導などはその最たるものだと言ってよいでしょう。実際には、小さくても極めて美味なリンゴもあれば、美しい色艶と輝きを持ちそなえ、絵画などでの表現対象として最適なリンゴもあったりします。とても整った形をしていてお供え物に格好だったり、程よくずっしりとした重さがあって手触りもよく視覚の不自由な人々に好まれたりするリンゴだってあるでしょう。それらはサイズのみに基づく「リンゴ1個」の標準概念(理論)では捉えることも測ることもできない特性なのですが、その標準概念が定着してしまうと、他の視点と評価基準に立つ諸々の優れた要素は忘れ去られてしまいがちです。創造力その他の多様な能力を捨象し、ペーパーテストの点数のみに基づく偏差値データで一面的に受験生の能力を評価する行為にそれは酷似しているのです。
 さらにまた、百歩譲って、リンゴのサイズに基づく「リンゴ1個」の標準概念が十分有意義なものだったと仮定してみましょう。ところが自然環境の大きな変化や高度な技術に基づく品種改良、さらには栽培技術の進化などによってリンゴのサイズに大きな変化が生じ、標準リンゴから大きく偏った巨大リンゴが収穫のほとんどを占めるようになる事態も起こります。その場合には「リンゴ1個」の標準概念(標準理論)を現実の状況に沿うように改更するか、さもなければ、従来の標準概念に合致するように収穫されるリンゴのサイズを無理やり調整してやらなければなりません。前者のケースは実事象の変遷に伴い生じる理論に限界があることを物語っていますし、後者のケースは既成の理論を絶対視するあまり現実の変化を無視する愚かな対応を象徴しています。
いずれにしても、「リンゴ1個」に関する絶対不変の概念(絶対的理論)などこの世には存在しようがありません。現実世界の諸事象の推移に伴い、どんな優れた理論も変遷せざるを得ないのです。

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