時流遡航

第44回 原子力発電所問題の根底を探る(10)(2012,08,15)

既存の国内原発を今後どのようにしていくべきかについて、現段階で決定的な対応策を提唱することは容易ではない。相当な負の選択の伴うが避けられないからだ。そんな中で、各種行政組織や政財界などから完全に独立した原子力規制委員会を設け、その組織に強い権限を持たせて原子力問題の対応に当たらせようという運びになってきた。当初から強力な権限を持つ原子力規制員会が設けられていた米国などとは異なり、日本では原発の推進を担う組織とそれを規制する組織とが未分化のまま放置されていたので、そのことに起因する弊害も少なくなかった。そのような背景からすると、原子力規制委員会設立の方針自体は評価できるが、問題はその機能の厳格な設定や委員となる人材の構成だ。

従来の日本の原子力安全委員会などはあってなきがごとき存在で、精々参考意見を述べる程度のことしかできなかった。「原子力ムラ」という言葉に象徴されるように、国内すべての原子力関係の研究者・技術者を合わせてもごく限られた狭い専門家集団世界のことなので、相互になにかしらの関係があり、何をやるにしても大なり小なり身内意識の働いてしまうことが避けられないのもその一因だった。たとえ優秀で良識ある専門家であっても、下手に原子力の安全性についての研究などを行い、「原発は絶対安全」とする見方などに異論でも唱えようものなら、村八分状態に追い込まれ直接間接の圧力に晒されるというのが実状だったのだ。当然、米国並みに強い権限を持つ原子力規制委員会を設けることそのものにも反対が少なくなかった。

(原子力規制委員の前途は多難)

福島第一原発事故を契機に風向きが変わり、原子力の専門家の中にも原発行政や電力会社の原発運営管理の実態について批判的な意見を述べる者が多数現われ、その見解が国民にも浸透した結果、日本にも原子力規制委員会を設立しようという動きになった。だが、率直なところ楽観は禁物だと言える。今回の事故の実態を誰よりもよく知る福島第一原発の吉田昌郎前所長が重病を理由に表舞台から姿を消した裏において、東電内部の特殊な事情や政治的配慮が働いていたことは間違いない。死を覚悟であの重大事故に立ち向かった吉田前所長の気性や人柄からして不自然極まりない話であり、そのことひとつを考えても今後の原子力行政が一筋縄ではいかないことが判るだろう。

新聞ですでに報道されているように、内閣府原子力安全委員会の関係委員89名中、斑目春樹委員長を含む24人が2010年までの5年間に原子力関連企業や業界団体から8500万円に及ぶ寄付を受けていた。また、原発メーカーや審査対象の電力会社、核燃料製造会社から寄付金を受け取っていた者も11名にのぼるという。当人たちは口を揃えて査定業務への影響を否定しているが、企業や業界団体が何の思惑もなく特定の人物に多額の寄付などするわけもないし、その恩恵を受けた側が相手に対し真の意味での厳しい査定を下せるはずもない。自分がそのような立場にあること想像してみれば事態は明らかだろう。無論、企業や業界団体の学術界に対する寄付が悪いとは思わないし、むしろそれは奨励すべきことであるが、その行為が重大事故にも直結するような判断を左右するとなると話は別である。

そのような状況を考えると、強い権限を持つ原子力規制委員会を新設し、5人の委員を選出するのは決して容易なことではない。国民からも大きな信頼と尊敬を受けている米国原子力規制委員会の場合、その委員に必要な条件は、原子炉全体の構造設計、核燃料のペレットつくりから原子炉運転作業に至る一連の工程、安全保守作業、原子力関連法規などのすべてに通じていることであるとされ、その厳しい条件を満たすために特別な要因の訓練所や実践体験修得課程なども設けられているようだ。日本の場合には、将来的にはともかく、現時点で直ちにそのような人材を確保することは極めて難しい。国内の著名な原子力工学の研究者で、原子炉運転にはじまり、労多くしてリスクの高い原子炉の日常的保守作業や各種配管作業までを実体験したことのある人物など皆無に違いないからだ。まさに、「言うは易く行うは難し」の格言を象徴する事例だろう。現在、原子力規制委員の候補者として何人かの専門家に白羽の矢が立っているようだが、その人々の前途は多難と言うほかない。

(優れた原発技術者には評価を)

なお、ここで我われ国民が一つだけ留意しなければならないことがある。昨年の重大原発事故の発生以来はとくに、多くの人々が原発の専門技術者というものを冷たい現代科学の奴隷だとみなし、自然を愛する豊かな心を失った人間の典型として敵視しがちなのだが、それは速断に過ぎるのだ。彼らのなかには、自然の美しさや芸術の素晴らしさを深く愛する豊かな心をもった者も多いし、自ら好んで環境汚染や自然破壊に加担しようと思っているような者となると皆無に近いと言ってよい。電力会社の原発技術者などに対しヒステリックな批判を一方的に浴びせ、彼らに悪の権化のイメージのみを重ねていくことは、賢明かつ正当なこととは言い難い。完全廃炉にするにしても数十年はかかる原発に不測の事態が生じた場合、最終的に頼らねばならないのは彼らの力であることを忘れてはならないのだ。優秀な原発技術者の確保は将来的にも不可欠なのである。

問題は、国策としての電力事業やそれにまつわる各種利権の掌握を優先する政財界関係者や電力会社の経営陣が、現在の技術レベルや技術者の真摯な意見を無視した過度な要求を突きつけてきた場合、良識ある専門技術者らがそれにどう対抗するかなのである。19年前に筆者が若狭で取材した原発技術者も、「現場の実態や技術者としての良識に基づき原発の安全運転に関する報告や各種提案・申請などをしても、ほとんどは電力会社の経営陣や関係行政組織によって無視されたり握りつぶされたりしてしまう」と話してくれた。また、その人物は、重い口を開いて、「このままだと真に優秀で良識と責任感を合わせ持つ原発技術者は皆辞めていってしまい、イエスマン的な存在だけが残ることになる。そうなると先々起こ得る重大な事態に対して誰も責任を取れなくなる」とも語っていた。

飛行機や新幹線、船舶、自動車、各種生産プラントなど、科学技術と深く関わるシステムの安全性を検証し、その適否を判断するのは通常その道の専門家と決まっており、政財界関係者の介入する余地はまったくない。だが、日本の原発の安全性のみに関しては、全くの素人である政財界関係者が大きな発言権や決定権を有してきた。この構図が異様であることを我々は今一度真剣に考え直してみる必要があるだろう。原発問題に限らず、科学者や技術者の社会的発言力の弱い日本の現状の打破は喫緊の課題だと言うほかない。

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