時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(16)(2019,05,15)

(日本の伝統文化と日本語を真の意味で大切に)
 当然至極なことなのですが、哲学的思考をはじめとする諸々の思考の基本となるのは各種の言語です。そして、これまでも何度も述べてきましたように、そのなかでも最も重要なものは「母語」にほかなりません。幼児期から初等中等期の成長過程を通してしっかりと母語が形成されてこそ、人間というものは成人となった段階で濃やかな感性や深い論理的思考力を具えることができるようになり、さらにはそれらに基づいて的確で豊かな表現活動を実践することが可能になるのです。もちろん我われ多くの日本人にとって、母語とはこの国の伝統文化を支えてきた日本語のことを意味しているわけです。しかしながら、いまこの国においてはそんな母語の立脚基盤が相当に揺らいできているように思われてなりません。その一つが文学や歴史学、社会学などの学問分野の軽視です。そのことはまた、若者たちの読書力や言語力の低下に少なからず影響を与えているとも言えるでしょう。
 新元号が「令和」となると発表されたときを境に、国民の間では一気に万葉熱が高まりました。そして諸メディアも「令和」という元号の成立の大本(おおもと)となった、万葉の歌人で大宰府の長官を務めた大友旅人の「梅の花の歌の序」なる記述文を一斉に取り上げ、万葉集へと人々の関心を誘ないました。もちろん、国民の多くが日本の伝統文化、とりわけ古典文学に強い関心を抱くのは悪いことではありませんから、そんな流れの持つ意義を否定するつもりはさらさらありません。ただ、問題なのは付け焼刃的で一過性のものに終わってしまいかねないその何とも軽薄な状況です。総理大臣などは、あらかじめ誰かに教わっていたらしい俄仕込みの知識をもっともらしく振りかざしながら、「令和」の語源に絡む万葉集の文化的意義などを語っていましたが、その有様を目にした心ある人々の多くは、万葉集などとはおよそ無縁なその人間性の本質を鋭く見抜いていたことでしょう。
そもそも現政権を蔭で支えているともいう強い保守主義思考を持つ人々のなかで、日本の古典文学や古代史などをしっかり学んだ人がいったいどれほどいるのでしょうか。伝統的な歴史文化や国学・国文学の類を真摯に学び、そのうえで日本文化の重要性を説く本来の意味での保守主義的な立場をとる人々については、その主張を敢えて批判するつもりなどありません。それはそれでこの国の文化にとっては必要不可欠な存在だからです。
問題なのは、常々日本文化の優れた本質などには一切触れることなどなく、またそれらにはほとんど関心などないにも拘らず、事あるごとに上辺だけの保守主義的な主張を展開し、表面的にのみ伝統文化回帰を謳う一部の人々の行為です。自らのものとは異なる主義主張を持つ人々を、非国民などという言葉によって一方的に批判したり攻撃したりする行動などはその延長上にあると言ってよいでしょう。そもそも、その種の行為は「令和」という新元号の含み持つ精神にも反していると考えられます。さらにまた、古事記、日本書紀、万葉集、古今集、竹取物語、源氏物語などをはじめとする国書の意義や、それらのなかに秘められた日本の伝統文化の粋が真に重要だと訴えるのなら、拾い読み程度でも構わないゆえ、せめてそれらの著作の現代語訳のうちのひとつくらいには目を通したうえでのことにしてもらいたいと思うのです。それらの著書に記述されている世界やその中核を成す精神はけっして排他的かつ閉鎖的なものなどではありません。
 いま日本の国立大学をはじめとする各大学の文学部や社会学部などの教育環境は悲惨な状況に陥りつつあります。近年の実学優先の学術政策推進の煽りを受け、諸々の文学研究や社会学研究の類は役に立たないものだとして低く評価され、専門研究者の枠が著しく狭められているばかりでなく、それらの分野に所属する国立大学の専任研究者らに交付される年間の運営経費は信じ難い額になってしまっています。旧帝国大学系の一つである中部地方の国立名門大学の場合でも、その平均年額は僅か17万円ほどに過ぎないのだとか……あとは科研費のような競争資金から必要額を獲得しろということらしいのです。もちろん、他の国立大学でも同様の事態が生じているだろうことは想像に難くありません。
実学、すなわち、目に見えて現実的経済生活に直結するような研究が優先的に評価される風潮のある科研費から、文学や社会学分野の研究者らが十分な資金を獲得することは容易ではありません。それゆえ、日本の古典文学や伝統的歴史学の研究などの維持継続は大変厳しい状況に陥りつつもあるのです。そんな状況下にあるにもかかわらず、ご都合主義の政治家やその背後の支持者たちが、無責任かつ一時的に国学の類を崇め奉り、万葉集の世界への回帰を口にしているわけですから、ただもう呆れるばかりです。この国の伝統文化を大切にするのが「令和」の時代であるというなら、日本語や日本文化を根底で支える学術研究領域の維持に十分な配慮をすべきでしょう。経済発展に直接結びつかないものは無意味だとするその本音を隠しながら、口先だけで日本の伝統文化の意義を語るなどもってのほかと言うしかありません。
(英語はもちろん重要なのだが)
 いま日本では英語教育熱がこれまでになく高まり、小学校の教育課程にも英語学習の時間が設けられることになりました。もちろん国際的な活躍の場において英語の知識は必要なものですから、そんな教育界の動向そのものは悪いことではありません。ただ、問題なのは英語熱に煽られるあまり、肝心の母語である日本語の習得が疎かになってしまうことなのです。日本語による表現力や科学の分野をも含む日本の文化全般についての基礎知識をしっかりと身につけないままに、表面的な英語だけができるようになったとしても、その英語を用いて相手に伝えるべき深い思考や高度な表現内容などが伴わなければ何にもなりません。通常、日本育ちの日本人が国際的な場において英語による学術的な研究を発表したり、文化的あるいは政治外交的な面で重要な発言をしたりする場合、それに必要な事前の根底的思索は母語の日本語で行います。むろん、母語を英語とする日本人の場合には話は別で高度な思考などはすべて英語で行うわけですが、日本人の誰もがそうなるためには幼児教育から高等教育に至るまでの全教科過程を英語中心で行うしかありません。そうなると日本文化の伝統は間違いなく崩壊してしまいます。そう考えてみると、英語熱に浮かれるあまり日本語の基礎学習を忘れたり軽視したりすることは許されません。
 長年BBCワールドワイド部門に勤務し、ロンドン日本人会の会長をも務める知人などは、日本の大学で講義する折ごとに、英国では流暢に英語は喋れるが本質的な日本文化の素養ない日本人よりも、英語は巧く喋れなくても日本文化に深く通じる日本人のほうがずっと歓迎されるので、日本語と日本文化の修得こそが第一だと訴えかけているそうです。

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