時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(28)(2016,05,01)

(工場作業員の人身事故時に救急車を呼ぶも)
 学生時代の夜警アルバイトの想い出のなかには、いまだにその出来事の顛末の適否を判断できないようなものもある。そして、そんな遠い日の理不尽な事態をふと思い浮かべるにつけても、単純明快な答えなど元々存在しない人間社会の複雑さを痛感するのみである。
 その日の午後5時に東京シャーリングに出勤したとき、工場内ではまだ残業が続いていた。そして、1時間ほどが経過した頃だったと思うが、突然、外でバシャーンという何かが落下する音がすると、急に周辺が騒がしくなった。何事だろうと思って窓ガラス越しに外の様子を窺うと、運河沿いにある大型クレーンの下あたりにかなりの人だかりができていた。私もすぐに事務所から飛び出してその人だかりのほうへと近づいてみた。
 そこには50歳代くらいの小太りの日雇い作業員が倒れていたが、その人物には私も見覚えがあった。白のヘルメットが近くに転がり、その頭部からはかなり大量の血が流れ出ていた。また、そのすぐ近くには尖った角の一部にワイヤーロープが掛かったままの大型の鋼板が半ば傾くようにして横たわっていた。一見して起こった事態は明らかだった。運河に浮かびながら接岸しているダルマ船からクレーンで大型鋼板を吊り上げ、工場内の敷地に下ろす際に突発事故が起こったのだ。通常、鋼板をクレーンで運搬するときは、先端を輪状にまるめた丈夫なワイヤーロープ4本を長方形の四隅の角に引っ掛け、バランスをとりながら空中に吊り上げる。ところが、クレーン操作中に何らかの理由で支えのロープの一本が切断し、不安定になった鋼板が落下してその角が作業員の頭部を直撃したのだった。
 当時30歳前後だった若い正社員の一人が、血を流して倒れているその作業員のそばに身を屈め、その身体を覗き込んでいた。そしてその彼が、「これは手配師が外部から連れてきている日雇い工員だから、このままもうちょっと様子を見たみたほうがいいかなあ」と呟くのが聞こえてきた。そのいささか無責任な言葉にとっさに反応した私は、事務所内に駆け込むと、すぐに119番に電話し、救急車を呼ぶ手配をした。ある意味では独断的な行為だったのかもしれないが、複雑な社会の実情にまだ疎い学生の身だった私にしてみれば、それは当然至極な対応のつもりだったのだ。程なく救急車がやってきて倒れていたその人物を収容し、病院へと運んでいった。
 翌々日の夕刻に出勤すると、私はすぐさま工場長に呼びつけられた。そして、「勝手に救急車を呼ぶようなことをするんじゃない!」とこっぴどく叱責された。その前日に夜警バイトに入った友人から、事故に遭ったその作業員は重傷だったが幸い生命には危険はないようだと聞いていたので、その厳しい叱責はいささか意外なことにも思われた。ただ、アルバイト学生の身としては、すみませんでしたとひたすら謝るしかなかった。
 だが、のちのち冷静になって考えてみると、工場長には工場長なりの立場と従うべき会社の指針があったのだろうと推測される。たとえ手配師によって山谷あたりから連れてこられた日雇い労務者であったとしても、勤務中に事故に遭い、救急車の出動によって病院に搬送されたとなれば、会社としてそれなりの対応をとらざるを得なかったことだろう。まず、事故原因を確認し、その詳細を報告しなければならなかったはずだが、ワイヤーロープに不備があったとなると、会社側はその保守管理責任を問われることにもなっただろう。いったんそのような事態が生じてしまうと、警察や労働基準監督局などから工場全体の機器類を詳細にチェックされたり、組織の保守管理体制を全面的に問われたりすることになってしまう恐れもあった。少なくとも、公的機関への報告義務は生じたはずである。また公的な機関のほうも、いったん明らかになったそんな事態を見て見ぬふりをし続けるわけにもいかなかったことだろう。だから、当時は普通に行われていた工場側との内々のやりとりだけで済ませるわけにもいかなかったはずである。
 病院の治療費やその後の補償問題などへの対応も大変だったろうし、手配師の連れてくる日雇い労務者らに業務の遂行を大幅に依存していた実状からしても、彼らとの良好な関係維持に配慮する必要があったに違いない。実際にはそこまではいかなかったようだが、もしも工場の管理体制に対して厳しい公的な監査が入ったりしていたら、日常業務が一時的に停止してしまい、大きな損失さえもが生じてしまいかねない恐れもあった。そうなると、他の多くの工員たち、さらには私自身の夜警アルバイトそのものにさえ影響が出てもおかしくはなかった。
(絶対的な答えなど存在しない)
 では、私が救急車を呼んだ判断は若さのゆえの勇み足とでも言うべきだったのだろうか。もちろんそうは思わない。一時的にしろ、事故に遭った人物が重体に陥ったことは確かだったし、ことによったら死に至っていたかもしれないからだ。ただ、「人命は何ものにも替えがたい」という教えが建前論にすぎなくなる現実の社会では、私の行為は他の多数の人々にとって迷惑至極だったこともまた事実なのだ。この種の問題には絶対的な答えなど存在しない。その時々の状況やその問題に関わる人々の立場次第で対応が異なってしまうのだ。
 実を言うと、この話にはその折の自分の判断の適否をさらに曖昧にさせるような落ちがついている。私が東京シャーリングでの夜警アルバイトを辞めるとき、工場長のところに挨拶に出向くと、相手はそれまでの夜警の労を心からねぎらってくれたばかりでなく、その夜に特別な時間をつくって門前仲町の有名な老舗で鰻重を御馳走してくれたのだった。その際、工場長は、「是非とも自分の選んだ道を着実に進むように……」と温かい言葉をかけてくれた。そこで私が「あの時は……」と失礼を詫びかけると、相手は軽く手先を振り無言でその言葉を遮った。多分、作業現場での諸々の事故処理に日々対応していた工場長のほうも、会社組織の中にあって人知れず何かと苦悩し続けてきていたのだろう。
 貧困からの脱却を目指し国内のあらゆる産業が先を競って一斉に走り始めていたこの時代、その種の出来事はいたるところで頻繁に起こっていたに違いない。そして、遠い昔のそんな個人的行為の適否にさえいまだ明確な答えを見いだせずにいるのだから、諸要素が複雑に絡む国内外の政治的課題や社会的問題について短期間に絶対解を導き出すことなど不可能ではあろう。ただ、それらの問題に絡む当事者たちが、利害や意見が対立する相手の立場や事情をも極力配慮したうえで、その時々における現実的な答えを努めて模索することは重要だ。過去の歴史文化や社会的背景などを熟慮せず、現時点の自分の価値観だけを絶対視することだけは避けるべきである。アジアの近隣諸国の失敗や愚行を笑ったり批判したりすることは易しいが、それはかつて我々が歩いてきた道そのものでもあるからだ。

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