時流遡航

《時流遡航268》日々諸事遊考 (28)(2021,12,15)

(日本の言語文化の現状に抱く些かの懸念)
 その国に特有な言語というものは、当該国の文化の中核を形成する第一の要素にほかなりません。その国の人々の生活と深く結びつく自国語の使用を特定の権力によって規制されたり、何かしらの原因でその言葉そのものが衰退したりしたら、国の存続に揺らぎが生じるばかりか、貴重な民俗文化そのものが崩壊消滅していくだろうことは想像に難くないでしょう。かつてこの日本も、占領した東アジアや東南アジア諸国の人々に日本語の使用を強要しました。結果的には一時的なものに終わったにしましても、その国の民俗文化に少なからぬ負の影響をもたらしたことは確かです。当時の日本の国家指導者らがそんな占領政策を採ったのは、むろん、言語というものがその国の民俗文化や政治・社会の動向を大きく左右することを認識していたからに相違ありません。
戦時中、当時の日本政府や軍部筋が敵性語排除の理念を掲げ、特に英語の使用を規制しようとしたのも、多分にそんな背景があったからのことなのでしょう。米国から伝わった野球そのものは禁止せず、投球判定の際の「ストライク」という表現を「一本」と言い替えさせたりした話などは、今となってはお笑い種なのですが……。
その意味では、第二次世界大戦終了直後からGHQを主導したアメリカが、日本人に英語を強制しなかったばかりか、重要な歴史的古文献類を含む日本の各種言語資料その他の文化遺産を守ろうとしたのは、それなりに評価されるべきことだったのかもしれません。それに対し、日本人のほうは終戦を契機に見事なまでの転身振りを披露し、それまで敵性語として排斥してきた英語をすぐさま受け入れるようにもなりました。そして、それから76年を経た今日では、グローバル化した国際社会に対応するには必要不可欠なことだとして、小学校高学年の教育カリキュラムにまで英語が組み込まれる運びとなりました。
 文芸的にはまるで無価値な駄文を綴る程度の能力しか持ち合わせない、三流ライターのこの身ですが、昨今のそんな時流の直中にある日本の言語文化の維持継承については、些かの懸念を抱いたりもするようになってきています。日本語そのものが歳月の推移と共に徐々に変容を遂げていくのは必然の流れですから、そのこと自体を危惧するつもりはありません。「不易流行」――すなわち、「新たなものを求めて絶えず変貌を遂げ続ける流行性こそがこの世の永遠不変の本質(不易)であり、不易と流行は根元的には同一のものである」とする、松尾芭蕉ゆかりの俳諧理念に象徴されているように、そのような流れを避けて通ることはできません。日本語の表現体系の中に、古文体、漢文体があり、さらには文語体や現代語文体が存在しているのも、時流に伴う日常言語や記述文体の変遷があったからにほかなならないわけですから……。
(日本語の維持継承上の問題点)
 いま些か気掛かりになっているのは、近年の日本の教育界における国語教育の動向と、映像メディアやSNSの飛躍的発展に伴う、新聞、雑誌、書籍等に見る活字文化の大幅な退潮ぶりです。言語教育の一環である英語学習について言えば、国際社会に対応するために一定程度それが必要であることに異存はありません。かつて私も洋書の翻訳原稿を執筆したり、数理科学関係の論文を英語で綴ったりしてきた身ですから、英語学習の重要性は十分に認識しています。しかし、英語学習熱が高まるあまり、初等中等期教育期において母語である日本語の習熟が疎かになるとすれば、それは問題だと言わざるを得ません。
我々人間が深い思考を重ねる場合、誰もが母語に依存します。高度で抽象的な内容の外国語文献を読み込んで深く理解しようとしたり、伝統的な自国文化の本質を外国人に伝えようとしたりする際などには、母語の言語基盤に頼るしかありません。表面的にはどんなに日本語が堪能に見えても、その母語が日本語でない人が海外文献の日本語訳書の責任監修に携わることができないのは、そのような理由からなのです。もちろん、日本人でも幼少期から長年にわたって外国で育ちそこの言語を母語とする人や、逆に外国人でも日本育ちで日本語を母語とする人の場合にはその限りではありませんけれども……。
そのような観点からすると、日本人であるならば、初等中等期教育期においては母語としての日本語の着実な習得を優先するのは当然のことでしょう。バイリンガルと称される人々でも、高度な文献の内容などについて考察を進める場合には、母語で思考することが知られています。見かけ上はバイリンガルでも、どちらの言語の習得も表面的なものだけに終わった人には、言語上の深い思索や高度な論理表現の実践は難しいと言われています。
 いまひとつ国語教育面で気になるのは、高校の国語で古文、漢文、さらには小説や詩歌などの分野の学習が選択制になり、文学部などの学部以外では大学入試でも必須ではなくなったという問題です。論理的かつ実践的な文章の理解力や表現力を高めるためのカリキュラム構成に伴う処置だとのことですが、必修領域から外された分野は総て日本語表現の根幹に関わるものであるだけに、将来的に日本語文化の衰退へと繋がるのは不可避なように思われてなりません。かつては数理科学を専門とする道を歩んでいたこの身ですが、若い頃に学んだ古文、漢文、詩歌、小説などの基礎知識が、理数系学術研究分野での論理的思考や理論の記述・展開に掛替えのない役割を果たしてくれたことを思うと、現在の国語教育の状況には到底賛同できません。数理科学系の優れた研究者の多くが深い文学的素養やそれに基づく高い知見を具えている事実からしても、伝統的な国語教育の重要性は自明ですから、現状のカリキュラムに付随する負の側面を真剣に検討してみるべきでしょう。
 諸々の映像メディアや通信機器の開発促進と、それらに伴う各種SNSの飛躍的発展に連れて、若者を中心とした人々の関心が、新聞、雑誌、書籍といった従来の活字文化媒体から離れつつあるのは周知の通りです。VR映像をはじめ、真偽の混在した斬新な映像の配信や多者間相互の画像送受信が容易になり、SNSによる短文主体の情報交換が主流となった今、かつての活字文化や言語文化が徐々に衰退していくのは自然な成り行きなのでしょう。カタカナ語やアルファベット文字の略語に日本語が浸食されていくのも必然の流れなのでしょうし、言葉が命のはずの政治家の発言に重みが感じられなくなったのもその所為なのかもしれません。近年、意図的に息の長い文章を綴ろうとしている私などは、「お前の文章は冗長過ぎる。もっと短くしろ」との批判に晒されることもしばしばです。
 しかし、真摯に日本文化を継承し、それを次世代に伝承しようとするならば、その中核を成す母国語の安易な変容や衰退を見過ごすわけにはいきません。世の国語教師の面々、三流ライターのこの身などとは異なる一流文筆家諸氏、そして国文学、社会学、史学、教育学等が専門の大学研究者の方々、ここは是非とも日本語の継承ために声を上げて下さい。

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