時流遡航

《時流遡航241》日々諸事遊考 (1)(2020,11,01)

(連載執筆11年目を迎えるに際して皆様に感謝を)
この「時流遡航」の連載執筆を担当するようになってから先月で丸10年、240回を迎えることができました。その間一度の休筆もなく拙稿を綴り続けることができましたのも、ひとえに読者の皆様や本誌編集部の方々のご支援あってのことでございます。言葉及ばずながらもこの場を借りて心からお礼申し上げてやみません。
 昨今の自然界や人間社会にあっては善悪様々な事象が異常なまでに続発し、神ならぬ身の我われ人間を一喜一憂させています。そのような状況にも鑑み、これからは折々の世事世相の変遷を見つめながら、老いた身の胸中に湧き上がる雑多な想いを綴らせて戴こうかと考えています。哲学者パスカルに倣って「瞑想録(パンセ)」風の叙述でもできればよいのですが、思考力が衰え夢遊癖の昂じているこの身には、「迷想録」とでも称すべき駄文を綴るのが精一杯のところでしょう。その当然の結果として、体系性も一貫性もない文章を連ねる羽目になるかもしれませんが、極力柔軟かつ多角的な視点から諸事象を観望し、得られた知見をもとに着実に筆を運ぶことができるよう尽力する所存ではございます。  
(理性と感性の間で揺れる政治)
 人間社会が未来に向かって着実に発展していくためには、理性と感性の間の適切なバランスをとることが不可欠です。その時々の世情に応じて理性と感性のどちらかに重心が偏ってしまうのはやむを得ないことなのですが、理性と感性のどちらを重視するにしろ、その偏重の程度に許容限界というものが存在しているのは当然のことでしょう。社会全体の動向が極端に理性に偏り過ぎると、万事に冷徹で人間個々の心情などとは無縁そのもののメカニカルな雰囲気に支配されてしまうことでしょうし、逆にその趨勢が感性に偏り過ぎると、人々の心情が不安定化して精神的抑制力が機能しなくなり、社会生活が大きく混乱したり、方々で暴動や各種犯罪などが頻発したりしてしまいかねません。
 理性と感性のバランス問題がとくに社会生活に影響を及ぼすのは政治の世界を介してのことでしょう。米国の大統領選にあっては、理性に基づく一貫した論理性の意義などまったく無視し、場当たり的な感情論を丸出しにして選挙に臨む強気な現職大統領と、いささか迫力には欠けるものの少しでも理性的に選挙に立ち向かおうとする野党候補との間で熾烈な戦いが演じられています。新型コロナウイルス禍のもとで繰り広げられているそんな選挙戦の結果は程なく判明することでしょうが、民主主義国家の代表ともされる米国の大統領選挙制度の複雑さには問題も多いようなので、その成り行きからは目を離せません。
社会全体が平和で平穏な雰囲気に包まれている折の選挙では、理性的に振舞い論理的判断に基づいて一票を投じる人が多いものですが、社会が混乱し世界情勢に不穏な雰囲気が漂う折などは、どうしても感情的判断を優先し、それに基づく投票行動をとる人が多くなってしまいがちです。できることならその真逆、すなわち、社会が安定しているときには感性的要素を前面に押し出して将来的危機への備えを行い、社会が不安定なときには理性的側面を強く打ち出し感情の暴発に伴う諸々の混乱を抑制するような選択をすることが望ましいのでしょうが、現実の選挙というものはそう都合よくは機能してくれません。
新型コロナウイルス流行下の日本でも長期に及んだ安倍政権が終焉し、その流れを汲む菅新政権が誕生して国政の舵取りに乗り出しました。素人目にも問題が山積していた前政権末期の状況のまま解散総選挙に突入したら、議席の大幅減少は不可避だったことでしょう。そんな危機的状況を内々察知した与党主流筋が、健康問題を表向きの理由にして安倍前首相引退の花道を設け、その顔を立てながら次期総選挙への下準備をしたというのが安倍辞任騒動の真相だったのかもしれません。秋田の農家出身で、東京に出て苦学しながら大学法科夜間部を卒業し、国政を志して政治家秘書、地方議議員を経て国会議員となり、安倍政権の軍師役とも言うべき官房長官を長期間冷静沈着に勤め上げた菅義偉なる人物の表舞台への登場劇――たとえ一時的ではあろうとも前政権の末期的症状を払拭し、次期総選挙での与党の敗北を最小限に留めるには、それはまたとない妙策ではあったのでしょう。
その戦略の画策者らの読みは当たり、30%台に落ち込んでいた内閣支持率は一挙に60%台にまで上昇し、諸々のマスメディアが少なからぬ期待と礼讃の念を込めて新政権誕生を報じるところとなりました。自尊心が強く感情の抑制が苦手だったお育ちのよい前首相に対して、言葉数が少なく一見したところ理性的にも映る苦労人とかの新首相の姿が、多くの国民の感性には印象的に思われたからなのでしょう。ただその一方で、前政権の黒幕役を演じてきた新首相が真の意味で理性的な存在なのかどうかを見極めようとする国民も少なくないことですし、今後その本質が徐々に明らかになってくるでしょうから、新政権の評価に当たっては感情論のみに押し流されてしまわないよう十分に心しておくべきです。
 理性的な判断と感性的な判断との関係は、抽象と具象という両概念の関係にも類似しています。ある事象を構成する要素群の全体的平均像を重要視する抽象思考に対し、要素個々の特性を重視し個別的立場から事象の様態を考察するのが具象的な見地です。それら両概念は相補的なものであり、抽象が過ぎれば個別の要素の特質は見失われ、具象が過ぎると要素群全体がもつ普遍的な特性の把握は困難になってしまいます。万能の存在ではない我われ人間は、折々の必要に応じて抽象と具象の間を行き来しながら事象認識のバランスをとるしかありません。同様に、人間社会における理性的判断が社会の全体像に重きをおいてなされることが多いのに対し、感性的判断のほうは特定の要素像のもつ特質とその意義を重要視してなされることが少なくありません。そしてこの場合にも、我われはそれら双方の判断を相補的に受け止めながら、バランスよく総合的判断を実践するしかありません。
 先般、日本学術会議会員候補者のうち人文・社会科学系教授6名だけが理由不明のまま任命を拒否される事態が生じましたが、彼らは安倍政権下の行政政策に厳しい意見を唱えた人物ばかりでした。菅首相は任命拒否の明確な理由説明を極力回避しようとしていますが、前政権の官房長としてその任命権の行使に深く関わってきたことは隠しようのない事実です。近年、学問の自由問題については殆ど沈黙状態だった日本学術会議ですが、梶田隆章会長などは、過日のような弱々しい姿ではなく、より毅然とした態度で現政権と対峙し、理性的思考判断を担う象徴的存在として国民にその範を示すべきです。菅首相や加藤官房長官にあっては、小賢しい応対はやめ、民主国家の指導者らしく堂々とその見解を開陳してほしいものです。まっとうな議論あってこその民主主義ゆえ、この際、国民も理性と感性を総動員してその本質を見据え、次期総選挙で現政権の是非を明断すべきでしょう。

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