時流遡航

時流遡航249》日々諸事遊考 (9)(2021,03,01)

(コロナウイルス・ワクチン開発問題についての考察――――④)
 23年度稼働開始予定となっている軟X線主体の東北放射光施設運用には、当然ながら国内の製薬企業各社も参画することになっているようです。世界の最先端製薬企業の創薬研究体制に較べて一周遅れに近い状況にある日本の現状を回復するには、それは不可欠なことなのですが、その実現にはいま暫し時間を要することでしょう。ただ、その新施設の軟X線の輝度は強力そのもので、SPring―8の軟X線ビームラインの輝度の100倍以上もあるようですから、本格的な稼働が始まれば、医薬医療関係分野ばかりでなく、生命科学分野全般、さらにはエレクトロニクス、食品、有機EL(エレクトロルミネッセンス),触媒、再生エネルギー関連分野などのような各種物質材料科学研究領域の飛躍的な発展が期待もされます。
東北放射光施設の正式名称はまた未定のようですが、SPring―8やSACLAと並び、世界最先端を走る日本の最重要科学研究施設になることは間違いないので、政財界関係者はむろん、一般国民にもその存在意義を十分に理解してもらいたいものです。今般のコロナウイルス・ワクチンの研究開発には間に合いませんでしたが、その施設に科学技術立国としての日本の未来がかかっていることは疑う余地がありません。東北放射光施設は平成28年に設立された国立研究開発法人・量子科学技術研究開発機構に、その中核施設として所属することになるようですが、それは必然の流れとでも言うべきでしょう。
同施設のサイクロトロンや諸ビームラインの設計と建設には、当然ながら理化学研究所傘下のSPring―8で長年にわたって養成あるいは蓄積された諸人材や諸技術が投入されています。また、国の理解を十分には得られていなかった施設建設計画立案当初から、専門研究者ばかりでなく、諸自治体並びに民間産業界からの意見や要請を極力取り入れるように配慮されてもきました。そのような経緯からしても、仙台市青葉台地区で進行中のこの軟X線放射光施設建設は、産・学・民協働の国民的なプロジェクトだと考えるべきでしょう。先々期待されるその貢献の大きさはSPring―8やSACLA同様に日本国民全体に対するものであり、けっして東北地方のみに限定されるものではありません。
(「富岳」の意義と問題点とは)
 話はコロナワクチン開発問題から少々ずれることになりますが、この際ですから、SPring―8やSACLAなどの施設とも直結し、それらの施設における諸々の先端研究を支えている神戸ポートアイランドのスーパーコンピュータ「富岳」についてもちょっとだけ触れておくことにしましょう。新型コロナウイルス感染が拡大し、その防止を図るため3密なる状況を避けるようにとの勧告がなされ、さらには緊急事態が宣言されるに至ってテレビによく登場するようになったのが、「富岳」によってシミュレートされたという人間の口元からの飛沫拡散の諸状況に関する映像です。演算速度やデータ処理能力で現在世界一の性能を誇ると喧伝されている「富岳」ですが、その有意性を納得のいくかたちで多くの国民に理解してもらうことは必ずしも容易ではありません。
その意味では「富岳」の実用的側面を広く一般にアピールするため、人間の口から発せられる微細な唾液飛沫の拡散状況をシミュレートして見せることはなかなかの着想だと言ってよいかもしれません。コロナウイルス蔓延の折柄、繰り返しテレビで流されるその映像が、説得力をもって「富岳」の威力を世に知らしめる運びとなったわけですから……。
 しかし、それら一連の飛沫拡散シミュレーション映像を何度も目するうちに、いささか違和感を覚えるようになった方も少なくないかもしれません。そもそも、しきりに放映されているようになったあの種のシミュレーション映像を作成するなら、以前から国内各地で稼働している他の大型コンピュータの能力でも十分で、敢えて「富岳」を用いる必要などないからです。「富岳」は、本来、もっと高度で複雑な自然現象や社会現象の解明、最先端の物理・化学・生物学分野の研究、近年複雑極まりない展開を見せている諸々の生命科学研究などに用いられるべきシステムで、口元から拡散する唾液飛沫をシミュレートするレベルのマシンではありません。
実を言うと、「富岳」は今年中に予定されている本格的稼働に向けて現在その全システムの機能、なかでもベクトル処理系機能の強化を整備調整中で、飛沫拡散のシミュレートを担当した研究者もそのことは十分弁えたうえでの実践的アピールだったと思われます。もちろん、「富岳」と直結するSPring―8の軟Xビームラインに再集結した製薬会社組織の創薬研究が始動し展開を見せるのもこれからです。
「富岳」の性能が世界一と評価されたのは、無単位・無次元のスカラー系数値高速演算機能と、無数のデータ間の相互関係を複合的に処理する有単位・有次元のベクトル系演算処理機能が、現存するスーパーコンピュータ中で最優秀と評価されたからです。それはそれで素晴らしい業績であることは事実なのですが、ただ冷静になって考えてみると喜んでばかりはおられない一面も存在しているようなのです。いくら「富岳」のスカラー及びベクトル両系の演算処理能力が高いとは言っても、そのコンピュータシステム自体が利用者の目的意図を自動的に察知し、その作業を勝手に実践してくれるわけではありません。
利用者が自身の研究に関する諸演算・諸分析処理をしてもらうには、目的に対応して「富岳」を稼働させるためのアルゴリズムを作成し、そのアルゴリズムを実践するためのプログラミングを行い、必要に応じて各種データベースを構築しそれらを相互に連携させなければなりません。端的に言えば、「富岳」の潜在能力がどんなに高くても、それを利用する側の能力や態勢が不十分なら、その潜在能力は無駄になってしまうのです。とくにベクトル系演算機能の活用に際してはそのことが重要になってきます。一般には殆ど知られていませんが、「富岳」の先代機「京」にはベクトル系処理機能に大きな欠陥があり、スカラー系の演算処理能力では一時的に世界一となったものの、片肺飛行とでも表すべき状況が続き、結局、当初期待されたほどの業績を上げることのできないまま廃棄処分に至りました。
 また、「富岳」の機能を上回るマシンが欧米や中国などに登場するのは時間の問題に過ぎません。コンピュータ構築を疑似人間の製作に喩えると、腦、心臓、肺、肝臓などのような諸臓器相当部品を専門企業から買い求め、それらを適宜組み合わせてスーパー合成人間を製作するようなものですから、経費と時間を投入さえすれば絶え間ないその機能の高度化は可能です。その場合、一番の問題は、各部位そのものの製作能力が国内にあるか否かなのですが、残念ながら今の日本には各部位を自力製作するだけの力量はありません。ブラックボックス化した構造不明の諸部位モジュールを海外に求め、それらを独自に組立てただけの代物と言うのが、「富岳」なる世界一のコンピュータの本質だというわけなのです。

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