(新型コロナウイルス感染拡大の状況下に思うこと)
世界中の誰もが新型コロナウイルスの感染拡大に怯えながら先の見えない日々を送っている昨今ですが、どんなに怯えてみても完璧な対応策を講じることなど不可能な現状にあっては、冷静に一連の状況を受け止めて各人が徹底した自己分析を行い、自律的行動のとりかたを模索してみるべきなのでしょう。いささか不遜な言い方にはなりますが、通常あまり考えることのない自らを含めた生命体というものの本質や生きるということの意義、さらには社会という存在の持つ機能などについて、それなりに認識を深めていくよい機会なのかもしれません。各種報道などによって日々過剰なまでに恐怖心を煽られ、それに怯え続けるくらいなら、この際少しばかり未来を見据えて開き直り、新たな知見や知恵の獲得へと繋がる足掛かりとして、一連の事態を活かしてみたらどうだろうかというわけです。緊急事態宣言が発せられ、極度に外出を抑制されるような環境下に置かれてはいても、思考力だけは自由に働かせることができるわけですから、この機会を逃すべきではありません。むろん自分自身が罹患した場合に備える冷静な心構えも欠かせませんけれども……。
古来、我われ人類は、自然の摂理の許すかぎり自らの生命を守り抜き、その命の灯火を後世の子孫へと伝え遺し続けるように心掛けてきました。ところがその波瀾に富んだ長大な変遷過程を根源的なところまで遡ってみると、自意識や自尊心にはおよそ無縁な化学的メカニズムをもつ原初的単細胞生命体や目下流行中の新型コロナウイルスのようなウイルス類へと行き着きます。裏を返せば、自己保存や自己増殖の意志や自覚などまるでない、ごくメカニカルな機能相互の多重多様な結合集積の結果による賜物が、「動物的生存本能」とも称される特異で原初的な精神構造なのでしょう。そして、そんな自己保存本能を支える機構がさらに複雑高度化したものが、現在の人類に特有な精神構造や自己意識保持機能だというわけなのです。さらにまた、それらが無数に集まって連帯結合しあい、一段と発展を遂げたのが、高度な文化や文明に彩られた現代社会だということなのです。
その意味では、今般のコロナウイルス騒動は、遥か遠い昔に受けた恩恵を忘れてそれらの存在を蔑視し、まるで絶対君主であるかのように我が世の春を謳歌してやまない人類への反逆なのだとも言えないこともありません。もしかしたら、地球の自然環境を破壊しつつ、どこまでも傲慢に振舞ってやまない人類への、天の摂理に基づく警鐘なのかもしれません。我われは、自己意識に象徴される特異な精神構造を獲得した代償として、自己存在に伴う不安感や自己消滅の恐怖感を抱かされることになりました。原初的バクテリア類やウイルス類には、その組織体を構成する物理化学的メカニズムを一定期間維持しようとする特質はあっても、そのメカニズムを毀されたり失ったりすることに対する不安感や恐怖感はありません。いや、ことによったら現代科学のレベルをもってしてはその認知も解明も到底不可能な、人類の何百兆分の一、何千兆分の一かくらいの不安感や恐怖感の原初的要素なら秘め持っているのかもしれませんが、我われ人類の観点からすれば全面的に無視すべき程度のものに過ぎないでしょう。ただ、その分、無生物にも近いそれら原初的生命体の繁殖力と拡散力は尋常ではありません。
端的に述べるなら、自己存在に伴う不安感や自己消滅に対する恐怖感の発露は、精神構造を有する高度な生命体がその機能を維持するための代償――換言すれば必要条件ということになるのでしょう。折々人間社会を襲い包む抗い難い不安感や恐怖感は、我われが生きていることの証でもあるわけですから、いたずらに逃げ惑うことなく、毅然とした覚悟のもと、冷静沈着にそれらと対峙するべきなのでしょう。
いささか皮肉のこもった言い方になりますが、そのような事態が生じた時にこそ、著名な人物の言動などをじっくりと考察分析してみるとその人の本質が見えてくるものです。それを好機と受け止めて他者に対する己の認識眼を磨き上げるのも一法かもしれません。自立度の高い人間かそれとも他者への依存度の高い人間か、自己中心的な人間かそれとも他者への思いやりのある人間かなどの特質は、非常事態時にこそ顕著になりやすいものだからです。もっとも、その前に、まずは的確な自己分析や自律的思考を試みておくことが不可欠にはなるでしょう。身の程知らずの状況に陥ることだけは極力避けるようにしなければなりませんから……。
(不安感とは知的生命体の宿業)
人類の高度な生命機能の発展に伴う不安や恐怖の解消に多大な貢献をしてきたのが、医療技術を含む科学の発達であったことは言うまでもありません。近現代における飛躍的な科学研究の発展のおかげで、「科学教」とでも称すべき「科学の万能性」を狂信する人々さえもが現われているような有様です。昨今、ビッグデータなるものをAI処理して未来を予測するデータサイエンスなどに過剰な期待をかける人々が多くなってきたのも、そんな時流の中にあってのことなのでしょう。しかしながら、科学技術が未来の出来事を完璧に予測し、我われ人類の不安感や恐怖感を完全に除去してくれるような日が到来することは絶対にありません。自らの存在の大前提とでも言うべき未知の事象や不慮不測の事態との遭遇の道程――すなわち「知的観念の冒険の場」あってこそ成り立つのが生命現象であり、知的生命体というものの宿命でもあるからです。
その意味では今般の新型コロナウイルスの出現などにも、我われ人類の生命機構の今後の維持発展に何かしらの寄与をしてくれる一面はあるのでしょう。もしも未来の事象についての不安や恐怖が一切消え去る日が来るとすれば、それは人間という名の生命体が完全に無生物化し、この大宇宙におけるその存在の役割を終えた時にほかなりません。不安感や恐怖感というものは、複雑で高度な機構を具え持つそれなりに自立性の高い生命体の特質だとも思われるからです。
ただ、自立性が高いとは言ってみても、個々の生命体のもつその資質には限界が存在しています。自立性の利点が発揮されるのは、その生命体が他者によって自己の存在が支えられている事実を必要最低限にしか意識しなくてもすむような場合に限られます。自立性と共存共生性とは実は表裏一体のものであり、安定した共存共生の基盤あってこそ自立性は保証され、逆に、個々の存在の自立性あってこそ真の意味での共存共生の展開が可能になるものだからです。新型コロナウイルス拡散の影響で日本国内をはじめとする医療システムや経済流通システムが致命的な打撃を受けた現在、その危機を切り抜けるのに不可欠なのは、真に自立した個々の存在が相互にネットワークを構築することによって生じる共存共生の態勢にほかなりません。「己は捨てぬが共生には尽力する」というわけです。