時流遡航

第39回 原子力発電所問題の根底を探る(5)(2012,06,01)

炉心冷却用電源喪失が原因だったとされる1978年の米国スリーマイル島原発事故発生後も、「日本では30分以上の電源喪失事故は起こり得ないので特別な安全対策をとる必要はない」という判断が下された。各電力会社などは、「これまでの諸条件や諸状況が今後も変わりなく続くとすれば」という大前提のもとにしか成り立たないはずの確率論を絶対的であるかのように振り回し、日本の原発で長時間の全電源喪失やメルトダウンのような重大事故が起こる確率は何千万分の1程度に過ぎないなどとする非論理的な安全論を展開した。それは確率論の過信や誤用というよりは悪用とでも言うべきもので、一種の確信犯的な行為でもあった。当然、「原子力ムラ」という異称で呼ばれるようになった原子力発電関連の専門家グループ内にさえも、そんな安易な安全論の展開に反対する者はあったのだが、時代の趨勢の中で全体としてそれらの異論はすべて無視された。

日本の社会構造や風潮も問題

原子力安全委員会や原子力安全・保安院などの行政組織は、事実上、シビア・アクシデント対策はすべて電力会社に委託したままで、自らは何ひとつ実効性のある方策を講じてこなかった。もっとも、我が国の場合、原発の実稼働に伴う大小の事故やシステムの不備に関する諸データは、非公開の機密事項として各電力会社のみに保有されるシステムになっていたから、それも必然の成り行きではあったのだろう。電力会社にしてみれば、政財界全体が原発推進の時流に乗っているうえ一民間企業としての立場もあったから、次第に経営優先の体質になっていくのは当然のことでもあった。そのため、電力会社は国からよほど強い要請や指示がないかぎり安全対策を講じることを怠るようになり、チェルノブイリ事故直後の対応にみるように、ついにはシビア・アクシデント対策を国から押し付けらえること自体にも一斉反発するようになった。そんな電力会社の姿勢を陰にあって支持し続け、問題点の隠蔽に一役買ったのは、労使双方の電力業界から大量の政治資金を貰っている多数の族議員たちであった。

さらにまた、国策に沿い、不自然とも思われるほどに多様な手段や多額の経費を用いて原発の安全性を唱え、備えは万全なので重大事故は絶対起こらないとPRしてきた電力各社にすれば、場当たり的な国の安全規制を全面受諾することへの抵抗感もあった。長期にわたる各種の安全政策やPR戦略によって築きあげられてきた原発に対する国民の支持や信頼感が全て無に帰してしまうと、電力各社は危惧したからである。原発安全神話に象徴される原発の絶対的安全性の主張が揺らげば、様々な訴訟が起こりその対応に追われかねないという点では、国と電力会社の利害関係が一致もしていた。その結果、国と電力会社との間には暗黙の了解が生じ、安全対策を真摯に検討し着実にそれを実践することは後回しにされてしまったのだった。既に報道されているように、大地震による津波の影響についての試算などは2008年に完了していたが、原発の稼働が中断される可能性があったため、すぐには国にその結果が報告されなかった。皮肉なことにそれが国に報告されたのは2011年3月8日で、その3日後に福島第一原発の大事故が発生したのだった。

これら一連の状況は、そうすることが重要だとわかっていたとしても、現実の社会においては、経済的利益より安全性を優先させることが如何に困難であるかを物語ってもいよう。重大な事故は起こらないとする一種の自己催眠のもとに、事が起こるまでは真剣にリスクと向き合おうとしない多くの日本人の体質も問題ではあるに違いない。国や電力会社を糾弾するのは容易だし、また、悲惨な事態が起こってしまった今となってはそれも当然のことなのだが、その一方で、自分が電力会社や国の原発管理部門責任者であったとすればどのように振舞ったのだろうかと、国民各自も冷静に自問自答してみる必要はあろう。自分は無関係で何の責任もない、悪いのは国と電力会社だと息巻くだけでは、一連の事態の本質も今後日本国民が採るべき方針も見えてはこないのだ。

渦中の大飯原発に思うこと

福井県おおい町にある関西電力大飯原子力発電所の3号機と4号機の再稼働を容認するか否かがいま大問題になっている。他地域に比べて原発依存度が高い関西電力は、このままでは今夏の猛暑時には電力需要量が15%前後も不足すると訴える。電力不足が経済界に及ぼす悪影響を危惧する国も大飯原発の再稼働を支持する構えだ。それに対し、大阪、京都、滋賀などの各地方自治体からは、その算定の根拠が不明確だし、再稼働容認の大前提となる原子炉のストレステストが不十分で安全性が信用できないとの声が上がっている。反原発派などは、国内の全原子炉が運転停止になったのを転機に、このまま54基全ての原子炉を即時廃炉にすべきだと主張し、同派を支持する世論形成に勢いづく。

いまから19年前の1993年4月のこと、私は現在論議の渦中にある大飯原発の取材に出向いた。その際に大飯町周辺に住む原発の専門技術者1人と下請けの原発労働者数人にも会って原発の実情を聴取した。当時原発反対派と原発推進派との間で交わされていた論争は、非現実的で甚だ不毛なものだった。些か独断的な比喩を用いると、原発反対派は「たとえ砲弾を喰っても絶対に落ちない飛行機を造れ、それが不可能だというのなら飛行機は造るな」と主張し、推進派は推進派で「我々の造る飛行機は、たとえ機内で爆弾が炸裂しても絶対に墜落しない」と応酬しているようなものだったからである。各種メディアの論調もどちらかに偏っており、それら両極端の議論の間を取り持つような現実的政策の提唱など皆無に近かった。安全神話が直接間接に浸透していたせいもあったのだろうが、重大事故の起こった昨今とは違い、国民の大多数も原発の諸問題については無関心そのものであった。私が大飯原発の取材を思い立ったのはそのような状況に疑問を抱いたからである。

天然ガス等による効率的で大気汚染度の低い火力発電技術の向上、揚水発電技術の普及、高度な各種節電技術の飛躍的な進歩、太陽光発電や風力発電の実用化、さらには国民の節電意識の高まりなどが実現した今日とは異なり、70年代から90年代にかけての経済発展期の日本社会が、国内各地の原子力発電に依存していたことだけは確かであった。水力発電用ダム建設用の適地がなくなり、火力発電にも燃料費の高騰や排気ガスによる大気汚染などの問題が生じていたこともその背景となっていた。私が大飯原発を訪ねたのはまだそんな状況の続いている時代のことで、当時この発電所の4基の原子炉はフルに稼働していた。そんな一連の原発取材体験談などを交えながら本稿の筆を進めていくことにしたい。

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