「電脳社会回想録」を連載中だが、今号では関係者双方に不祥事続きのSTAP細胞問題について私見を述べさせてもらおうと思う。ネイチャー誌掲載のSTAP細胞研究論文によってメディア界を席巻し、鳴り物入りでテレビに登場した小保方晴子氏の姿を目にしたとき、私は少なからぬ違和感を覚えた。STAP細胞に関する知識は皆無だったので、その時点では小保方氏らの業績に疑義を抱くようなことはなかったが、大写しになった彼女の両眼の異様な輝きと、自身の業績や苦節の過去を切々と訴えるその表情には、正直、ある種の異様さを感じたからだった。その過剰な演出が理研サイドやテレビ局の思惑によるものだったとしても、言動に慎重な科学者のものとは異質な演技じみた彼女の振舞いを見ていると、美しく知的な容姿の奥に隠されたナルシシスト特有の「したたかさ」を実感せざるを得なかった。
(小保方晴子氏の資質を考える)
著名な精神分析学者エーリッヒ・フロムは、豊富な臨床経験を基に人間の深層心理に鋭く迫ったその著作「THE HEART OF MAN」の中で病的な「ナルシシズム」について詳述している。「ある美青年が水面に映る己の姿に酔い痴れたすえに溺死し、遂にはその霊魂が水仙の花(ナルシッサス)へと化した」というギリシャ神話由来のこの言葉は、異常な自己陶酔型の男性の特質を表すために用いられる。ただ、ナルシシスティックな性格、すなわち過剰な「自己愛癖」、「自己陶酔癖」、「自己顕示癖」を有するのは男性のみにかぎらない。女性にもその種の性癖の持ち主は存在するわけで、広義においてはナルシシストという言葉は男女の枠を超えて用いられる。フロムが指摘しているように、人間誰しもナルシシズムの一面は持ち具えているのだが、問題はその程度の大きさなのである。
ナルシシストには、自分の容姿や能力、主義主張などを至上のものだと信じ見なす傾向があり、たとえ他者からの批判が的確至極なものであっても、激しい怒りを露わにしたり、巧みな弁明を弄したり、諸々の対抗策を用意したり、批判そのものが自分に対する妬みや逆説的な評価だと都合よく解釈したりし、決して己の非を認めようとしない。
表面的には、落涙したり、意気消沈したり、謙虚に反省したりする姿を見せ、巧みに周囲の同情を買うことはあるが、それもまた保身のためであることが多い。自らに非があろうとも、プライドを傷つけられたと感じたら、諸々の手段と人脈のかぎりを尽くして自己正当化を図るのもこの種の人物の特徴だ。宗教家、藝術家、作家、芸能人などにあってはナルシシストの資質が偉大な業績に繋がることも少なくないから、一概にそれが悪いとは言えない。だが、客観的で冷静沈着な判断と、失敗の連続に伴う真摯な反省の繰り返しが不可欠な科学者にとってその性格は好ましいものだとは言い難い。小保方氏と理研との確執は、双方の不手際や複雑な事情や思惑などもあって、何時の間にか科学的問題から法律的問題へと転じつつあるが、傍観していて苦々しいことこのうえない。
相反する両者の主張はともかくとしても、本質的な問題がSTAP細胞の存否にあることは間違いない。マウスによる幹細胞研究の第一人者である若山照彦山梨大学教授が小保方氏から提供されたSTAP細胞株なるもののルーツに疑問を抱き、ネイチャー論文撤回の意向を表明したにもかかわらず、小保方氏は、STAP細胞は存在するし、その作製に200回も成功したと断言した。また、小保方氏の上司の理研発生・再生科学総合研究所の笹井芳樹副センター長は、論文撤回に同意はしたものの、STAP細胞論文は有力な仮説であって、理論的に綻びがあるのは否めないが「STAP現象」は存在するという小保方氏擁護に近い見解を述べた。
だが奇妙なことに、小保方氏も笹井氏も外部の専門家を十分納得させるような科学的根拠は何ひとつ提示していない。しかも両者は、STAP細胞の万能性を証明するSTAP幹細胞の作製は若山照彦教授が担当したと責任を転嫁している有り様なのだ。
「小保方氏と不適切な関係がなかったか」と詰問してみたところで、笹井氏がそれを肯定するはずもないのだが、小保方氏がその美貌や特異な資質をもって若山氏や笹井氏に執拗かつ巧みに協力要請を迫ったのは事実のようである。
さらにまた、私には、一連の問題の発端がネイチャー論文の共著者で小保方氏の指導に当たったチャールズ・バカンティ・ハーバード大学教授にあるように思われてならない。米国の名門大学には純粋に先端学術研究を担う教授グループと、かなりきわどい諸々のテクニックを駆使しながら大学の資金調達や組織の運営・広報を担当する教授グループがあることは周知の通りだ。バカンティ教授は小保方氏同様に論文撤回を拒んでおり、日本のマスコミの取材にもノーコメントで通しているが、その風貌にはどことなく怪しげな雰囲気が漂っている。マウスの背中に耳型のプラスティックを埋め込み、それをマウスの細胞で覆って人々を驚かしてみせたという前科もあるこの教授は、STAP細胞研究の契機となったのは15年ほど前に自分の弟と試みた実験だったとも述べているらしい。
(不存在証明は不可能なゆえに)
それほどに重要で先駆的な発見なら、小保方氏と組むにしても、なぜハーバードの自身の研究室でSTAP幹細胞を作製しようとしなかったのか、また、なぜ、笹井、若山という国際的にも信頼ある研究者や理研という日本の大組織を抱き込まなければならなかったのだろうか。バカンティ教授にも寵愛され、「STAP細胞奇術」のテクニックを伝授された小保方氏が日本で計算づくの一大公演に打って出たというのは、邪推が過ぎる話だろうか。この際、「悲運の美人科学者」を謳い文句に芸能界やマスコミ界進出を図ったほうが彼女には得策かもしれないし、既にそのような深謀遠慮のもと、業界筋からの勧誘の打診なども受けているのかもしれない。
笹井氏はSTAP「現象」は存在するという実に微妙な発言をした。意地悪な見方をすれば、これは、「幽霊や宇宙人は存在しないことを証明してみせよ。さもなければ、それらは実在するかもしれないとも言えるのだ。幽霊や宇宙人の不存在証明がなされないかぎり、それらに実在の可能性はある。現に幽霊現象やUFO現象は存在しているではないか」と、不存在証明が不可能なことを承知で巧みに問題をすり替え開き直るのと似たようなものである。STAP細胞の登場に歓喜し、このような論法が通用する下地を作った理研の不手際は責められて当然だが、そんな情況を煽るべく無責任な野次馬集団と化したマスメディアの責任も甚だ重い。日本の学術研究の信頼を回復するためにも、理研はSTAP細胞再現の可否検証を急ぐしかない。一方の小保方、バカンティ、笹井氏らは、自分たちの研究成果や状況判断に間違いはないと主張するなら、姑息な保身に走るのではなく、堂々とSTAP細胞存在の絶対的な根拠を、換言すれば、幽霊や宇宙人の実物を提示してみせるがよい。