(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――④)
(近江商人の財力の源泉とは?)
琵琶湖南端部大津を中心とする近江地方を司馬遼太郎が「文明の十字路」と呼んだのは、その一帯が東西・南北2つの物流や情報流が交差する地理的な要所だったからなのです。西国方面から続く昔の山陽道・山陰道は京都南部で合流し、東海道となり山科を経て大津へと至っていました。また、その東海道は大津から彦根や伊吹山南麓を経て尾張に入り、駿河を通り江戸方面へと続いていました。誰もが知るように、その陸路は日本の東西を結ぶ古代からの主要街道なのでした。しかし、南北の流れと言われると、大津を通りその方向へと延びる街道があったわけではないですから、一瞬首を傾げる人も少なくないことでしょう。
しかし思い出してみてください――既に述べたように、その地は、敦賀・小浜―塩津・今津―琵琶湖―大津―瀬田川―宇治川―淀川―難波津と続く昔からの水運の中枢でもあったのです。日本の船舶技術が未発達で船の航行能力が低かった時代には、日本海沿岸各地の産物などを津軽海峡や関門海峡経由で瀬戸内や太平洋沿岸地域に搬入することは困難を極めましたし、たとえ可能だったとしても大変な時間と労力を要しました。もちろん、その逆のルートの物資運搬などまず不可能でもありました。ただ、山陰地方一帯から北陸、能登、越中、越後、出羽、津軽、さらには蝦夷地に至る日本海沿岸には古くから北前(きたまえ)船(ぶね)という海運便などが発達しており、それらの船は沿岸各地を繋いでもいました。ちなみに北前とは日本海のことを意味しています。一説によりますと、北前船とは単に各地の物資の運搬交易をはかるためだけの船ではなく、各地の寄港先で相場を張っては積載物資を売り捌き利益をあげる、移動型店舗機能を兼ね備えてもいたようなのです。
ともかくも、そんな日本海沿岸一帯の海運網を通して、山陰から津軽・蝦夷に至るまでの各地の物資が現在の福井県の敦賀や小浜に集積され、そこから陸路琵琶湖畔へと搬入されていたのです。また入江の地理的構造上、敦賀より小浜の方が貨物の積み下ろしや船の安全航行に適していたため、時代が下がるに伴い小浜―今津ルートのほうが一段と繁栄するようになってもいきました。そしてそれら大量の物資は琵琶湖の水運を介して湖畔南部の大津周辺に搬入され、さらには川伝いに難波津、すなわち大阪湾一帯へと運ばれていきました。もちろん、それら物資の一部は海運を通じて、瀬戸内、四国、紀伊、尾張、駿河、さらには江戸へと運び込まれたことでしょう。もちろん、その逆の物流も生じたに違いありません。現代なら、新潟や富山の産物を陸路によって東京へと大量かつ迅速に搬入するなど造作も無いことですが、江戸時代や明治初期頃までは遠回りでも水運に頼るしかなかったのでした。そして、その意味でも琵琶湖経由の物流路は不可欠な存在だったのです。
要するに、近江一帯は2つの重要な交易路が交差する場所であったわけで、文字通りの十字形に両路が交わっていたわけではないのですが、司馬遼太郎は敢えて比喩的に「文明の十字路」と名付けたのでしょう。もちろん、その中の「文明」という言葉には単なる物流ばかりでなく、諸情報の流れや人材交流の概念なども含まれていたわけです。
そして、それら一連の歴史的考察からも分るように、大津周辺を中心とした近江の地一帯を抑える商人らは、当時の日本国内の物流、情報流、人流の総てを一手に把握し支配することにより、莫大な富と強大な権力を築き上げるようになったのです。彼らが「近江商人」という特別な呼称を持つようになったのも、そのような背景があったからなのでした。しかも、そんな近江商人らの誇りは、自ら各種伝統文化に深く通じ、それらの維持発展に重要な役割を果たしているという思いに基づいてもいたのです。松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を終えた翌々年に大津を訪れ「行く春を近江の人と惜しみける」と吟じたのも、そんな近江商人の存在があったからにほかなりません。実を言うと、前述した日本海沿岸を結ぶ交易船「北前船」に投資し、それらを運営していたのも近江商人らであって、やがてその諸経験と諸技術が大手生命保険会社や三大商社の設立へと繋がっていったのです。
(太陽の動きを追って旅をする)
勢い余っていささか横道にずれてしまいましたが、今一度本題の心に残る旅の仕方についての話へと戻ることに致しましょう。少々地味な発想なのですが、ある地方を太平洋側から日本海側へと東西あるいは南北に横断し、生活環境や気候の相違、沿海地帯と内陸地域との対照性や関係性、太平洋側と日本海側との文化的相違などを体感してみるのもよいかもしれません。そこで、好天の日などを選んで岩手県宮古市の姉ヶ崎か浄土ヶ浜付近で太平洋から昇る美しい日の出を迎えたあと、同じ日の荘厳な夕陽を直線距離で200キロほど離れた秋田県男鹿半島入道崎あたりで眺め拝する事例を取り上げてみることにしましょう。ちなみにこの旅路、列車やバスを乗り継いで辿りゆくことも可能なのですが、途中の諸々の景観をも満喫しながら、余裕をもって完遂するには車の活用がお奨めです。
清冽な朝の光を仰いだあと、宮古からは蛇行の激しい閉伊川沿いの国道106号線を盛岡方面に向かって西進します。風情豊かな閉伊川の川面を眺めながら走行すると山間集落の陸中川井に至ります。川井集落を過ぎて程なく遠野方面に分岐南下する道が現われますがここはひたすら西進を続け、左手に高村光太郎ゆかりの早池峰連峰を望みながら走行すると、やがて森の都、盛岡に到達します。途中の岩手山地特有の景観は少なからず胸に迫るものがあることでしょう。盛岡から46号線に入り雫石町を経てさらに西進を続けると、右手前方に秋田駒ヶ岳の山影が大きく迫り、ほどなく仙北市田沢湖集落へと至ります。ここでは是非とも寄り道をしてください。西側湖畔のタツコ姫像を眺めたりしながら日本一の水深を誇る田沢湖を一周し、そのあと同湖の北東側山麓にある名湯乳頭温泉を訪ね旅の汗を流すに越したことはありません。そして再び46号に戻ったら角館を目指します。
旧武家屋敷の残る歴史的な町並みで名高い角館は、伝統工芸品の樺細工でも知られています。満開の桜並木に彩られる大通りの春の景観の素晴らしさなどは格別でしょう。角館から雄物川伝いに秋田市に入り一休みしたら、八郎潟と寒風山の南側を抜けてゴール地点の入道崎を目指します。ナマハゲで有名な男鹿市から入道崎に向かうには、北回りと南回りの2ルートがありますが、もし時間があるならば美しい海景の続く南回りがお奨めです。やがて車は男鹿半島先端部の戸賀湾に至り。そこから少し北上すれば目的地に到達します。日本海に突き出た入道崎には西の水平線を一望できる広い芝生の敷地があって、そこから眺める神秘的な夕陽の輝きは、1日の旅路のフィナーレを深い感動で包み込んでくれることでしょう。日の出から日没まで太陽の動きを追いかけ走るのがこの旅の極意です。