時流遡航

第32回 東日本大震災の深層を見つめて(12)(2012,02,15)

南三陸町志津川をあとにした我々は、海沿いの398号線伝いに石巻市北上町方面に向かい、北上川河口左岸に位置する月浜や追波の集落付近に出た。追波湾へと流れ込む北上川河口の堤防は至る所で破壊されおり、大量の土嚢を積んで一時的な応急処置が施されていたが、堤防の後背地にある集落はやはり甚大な損害を被っていた。本来なら北上町から新北上大橋を渡って雄勝町や女川町方面へと抜けることができるのだが、肝心の新北上大橋が崩壊し渡橋は不可能だったので、左岸伝いに河北町まで30kmほど遡行し、そこで飯野川橋を渡ってようやく北上川右岸へと出た。そして、今度は川下に向かって右岸沿いに走り再び新北上大橋のたもとまで戻ったが、その途中で目にした右岸後背地にある集落の被害も相当なものだった。堤防が決壊した場所には鋼板が敷き詰められ一応は車が通行できるようにはなっていたが、当然走行にはそれなりの時間を要した。広大な川面をもつ北上川のこの日の流れは穏やかそのもので、多くの人命を呑みこみながら河口から30km近くの地点まで大津波が水面を激しく遡上する光景などとても想像することはできなかった。

大川小学校の悲劇の背景とは

一帯には厳しい交通規制が敷かれていたが、津波のために多くの学童が死亡した石巻市立大川小学校は、この新北上大橋右岸側の袂からほどないところに位置している。学童らを、学校の裏山ではなく、この橋の袂の小高い三角地帯まで退避させようとしている最中にあの悲劇は起こったのだった。引率教師の判断ミスが大きく報じられたりもしているが、周辺の地形や当時の状況を総合的に考察すると、難しい選択であったことは間違いない。川幅が広く、細長い湾をも思わせる北上川は、過去の多くの津波の際にはそのエネルギーを緩やかな流れによって徐々に相殺し、高い波を川奥深くへと吸収する機能を果たしてきた。そして、そのメカニズムによって河口付近の集落の被害はかなり抑えられてきたと思われる。そのために、大川小学校一帯まで押し寄せるような津波の事例はこれまでそうそう無かったのだろうし、ましてや新北上大橋たもとの小高い三角地帯周辺まで呑み込むような津波はほとんど誰もが想定などしていなかったのであろう。だが、今回の大津波のエネルギーは、従来のそんな常識を遥かに超える巨大な代物だったのだ。学校裏山への退避路が整備されていなかったこともその事実を暗黙裡に物語っている。

学校の教師らは、学童全員を強制的に裏山に登らせた場合に起こるかもしれない大小の負傷事故の回避や、保護者への学童のスムーズな引き渡しを優先するため、結果的に悲惨な選択をしてしまったのだろう。最悪の事態を想定し、多少のケガなど問題にせず、なぜ強制的にでも裏山への学童の全員退避を遂行しなかったのかと部外者が批判するのは勝手だが、地元の人々でさえもこれほどの大津波に襲われようとは思ってもいなかったに違いない。また仮に、裏山への強制避難を実践していたとして、津波の被害が想定よりも小さかったとすれば、なんと大袈裟なと嘲笑されたり、無理な避難誘導やそれに伴う負傷の責任などを問われたりする結果にもなっただろう。人間社会とはなんとも厄介なものなのだ。東京湾岸沿いの低地住民に対して、いずれ大地震が起こり津波に襲われる危険性もあるからその準備を怠りなくして欲しいと警告してみたところで、実際にどれだけの人がその想定を真剣に受け止め、現実的な対応行動をとるものであろうか……。

雄勝湾の最奥に位置する石巻市雄勝地区は全域が文字通り壊滅状態で、市街地再興の可能性やその是非さえもが問われかねない状況にあった。漁業や観光で賑わった中心街はむろん、海岸からかなり離れた地域の大型建物までが全て破壊し尽くされ、膨大な瓦礫の山と化していた。堅牢な鉄筋コンクリート製三階建ての雄勝町役場だけは、全体が津波に呑み込まれたにも拘らず辛うじてその姿を留めてはいたが、人の気配は皆無で内部もまったく手の施しようのない状態だった。被災した公民館の屋根の上には、大型バスが乗り上げそのまま放置されていたが、その光景を目にしながらふと思い至ったことがある。観光シーズンではなかったとはいえ、浄土ヶ浜や牡鹿半島をはじめとする三陸海岸の景勝地には当時かなりの数の観光バスが走っていたはずだから、バスごと津波に呑み込まれ犠牲になった旅行者もあったに違いない。だが、奇妙なことに、その種の事実に関する報道はまったくなされてこなかった。それゆえ、もしかしたら、イメージダウンをおそれる旅行業者の思惑が陰で働きでもしているのではないかと勘ぐりたくさえなってくるのだった。

展望台に漂う異様な腐敗臭

雄勝から女川に通じる道路は途中で通行止めになっていた。だが、簡単な車止めがあるだけだったし、交通の全く途絶えた被災地の、しかも夕刻近くのことでもあったので、取り敢えずはリスク覚悟で行けるところまで行ってみようということになった。車止めを動かして規制区間の道路に入ると、徐行運転をしながら慎重に前進した。途中、小規模な崖崩れや大きな地割れが生じているところがあったが、なんとかそこを擦り抜けることができたのでそのまま走り続け、女川湾と女川市街が一望できる崎山展望台へと到着した。風光明美なこの展望台には過去何度も足を運んだことがあったので、トイレ休憩を兼ねて一休みしながらその後のルートを検討しようという算段でもあった。駐車帯に車をとめ、車中から展望台周辺を見渡すと、遊歩道や展望広場のあちこちに亀裂が走り、敷き詰められたレンガやタイルにもひどい損傷が生じているのが目にとまった。むろん、その一帯には他に人影も通行車両も見当たらなかった。

ともかくも車を降りてみようと思った私は、ドアを開いて一歩外に足を踏み出そうとした。だがその次の瞬間、防塵用のマスクをしていたにもかかわらず、思わず吐き気を催したくなるような激しい異臭に襲われる事態に陥った。それは人生で初めて体験するような凄まじい悪臭であった。田舎育ちの私は、幼少期から人や動物の糞尿や腐乱した魚類とか鳥類の放つ悪臭には慣れているから、少々のことでは驚かない。この日も被災地を巡りながら様々な異臭を嗅いできたが、特にそれを堪えがたいと感じるようなことはなかった。だが、この時の強烈な腐敗臭は異常極まりないもので、まさに「死臭」とでも呼ぶに相応しい代物であった。そして、そのような状況に至った原因はすぐに判明した。眼下の女川湾や女川市街一帯から吹き上げてくる上昇気流によってその異臭は凝集されながら展望台まで運ばれてきていたのである。その特殊な臭いの根源が、いまだ捜索の進まぬままに放置され湾内に沈み漂う多くの人畜の遺体であろうことは疑うべくもなかった。

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