時流遡航

~尖閣諸島国有化係争は冷静に~(2012,10,15)

尖閣問題に端を発した日中間の軋轢は当分鎮まりそうにない。ここまで事態が複雑化すると、穏やかな収束を望む民間人の思惑などそっちのけで、両国指導者間での不毛な体面の張り合いになるから甚だ始末が悪い。この騒動でいったい誰が得をしたというのだろう。冷静に騒動の本質を見据えておく必要がありそうだ。日中両国ともに、歴史的に見て尖閣諸島が自国の領土であることは間違いないと主張している。だが、「歴史的に見て」という、一見もっともらしいこの言葉の用い方には慎重さが求められる。この言葉と、「誰にとっても当然至極に」という修飾語とは、決して同義ではないからだ。「歴史」とは実は極めて主観的なものである。過去のある出来事を歴史の中に織り込む場合には、その織り込み作業を行う側の立場の相違によって当該事項の位置づけがまるで異なるものになるからだ。

何らかの係争に際し、「歴史的に見て」という形容を用いて自己の正当性を主張する場合には、その問題の背景や事実関係を事前に深く考察し、一連の過程を通して起こり得る自らの損失や長期の相互対立を承知したうえで、利害の反する相手側の歴史的主張と身を賭して戦い、それを論破し続ける覚悟がいる。それだけの決意と準備がないのなら、全てが自らの主張通りにはならなくても、どこかに相互の妥協点を見出す大人の知恵を持つしかない。そのような観点からすると、尖閣諸島国有化プロセスにおける政府の対応には、準備不足丸出しの稚拙さが感じられてならない。「ここまで相手が強行とは」との首相発言からも、両国の社会状況を読み切ってのことではなかったことが窺える。一部政治家の過激な言動には、竹島に上陸した韓国大統領の思惑と酷似した動機が感じられてならない。拙速な判断が招いた騒動で日中両国が被った文化経済面での損失のなんと大きなことだろう。

歴史とは、因果関係を基に過去の出来事を時間軸に沿って見やすく整理した特別な表現体にほかならない。そこで、ちょっとだけ角度を変えた思考トレーニングをしてみよう。いま、「リンゴが落ちたので、下を歩いていた蟻が潰れて死んだ」という説明があったとしよう。一見するかぎり単純明快な事実を述べており、議論の余地などないように思われる。だが、「リンゴの樹が生えていたから蟻が死んだ」とか、「リンゴの種を撒いたから蟻が死んだ」とかいう異論、さらには、「強風が吹いたからリンゴが落ちて蟻が死んだ」とか、「蟻がリンゴの樹の下の餌を捕食しようとしたため、落ちたリンゴに当たって死んだ」とかいう異見が唱えられたとしたら、どう抗弁すべきだろう。詭弁を弄するようだが、何れの主張にも幾許かの真理は含まれているから、議論の決着は容易でない。実際のところ、尖閣諸島や竹島問題における歴史絡みの論争は、この種の厄介さを孕んでいると言ってよい。

(思わぬ人物のまっとうな発言)

9月19日付の朝日新聞オピニオン欄で、学生時代から行動右翼を自認し、新右翼団体「一水会」の会長も務めた鈴木邦男氏が「愛国」という理念について述べ、その中で尖閣諸島や竹島問題などにも触れている。右翼と聞いただけで一般人は敬遠しがちなものなのだが、鈴木氏の主張は実に筋が通っており、正当かつ客観的なことこのうえない。領土問題や愛国理念などに関する最近の論評の中では他に類をみない格調の高さである。

同氏は、「外国人が母国に抱く愛国心を理解し、その上で日本を愛する。自分の国がすべて、日本だけが素晴らしいという考えは、思い上がった自国愛にすぎません。ただの排外主義です。愛国とは最も遠いものです」と述べ、続いて、「日本はアジア諸国に対し、弁解しようのない失敗を犯してきました。そこを認めずに、日本は正しかった、悪いことはしていない、失敗を認めることは反日的だと言いつのり、良いところばかり愛するのは愛国心ではない。心の痛みが伴わない愛国心はフィクションにすぎません」と指摘している。

さらにまた、「日本でも愛国を訴える政治家が多くいます。尖閣諸島や竹島問題では戦争も辞さない勢いで国民を煽動しています。愛国を訴えて立派な政治家と思われたいのでしょう。あまりに不純、卑劣な態度です。――(中略)――非国民、国賊と呼ばれても、大局的な立場から冷静に対処する覚悟がなければ、真の愛国者とは言えません。国民生活を豊かにできない自らの無能を隠すために愛国を利用する卑怯者です。本来、愛国心とは家族への愛、故郷への愛、その延長上に位置するものです。しかし、最近は自分と国家を直接結びつけることが愛国だと考えられているようです。――(中略)――多様性、敵対性もすべて含めて抱きしめる心、それが、日の丸掲揚や靖国参拝の回数でははかれない真の愛国だと思います」と書き、昨今の政治家たちを痛烈に批判している。

(尖閣諸島の本質的価値とは)

尖閣諸島周辺では、双方の自由操業を保証する日中漁業協定に基づいて両国漁船は従来同海域で共存してきた。だが今般の国有化騒動により、周辺海域では日中台の巡視艇や漁業監視船が互いの存在を誇示して威嚇し合い、安全操業を行えるような状況ではなくなった。石垣島の漁民などからは、稚拙な国有化など却って迷惑だとの声さえ上がっている。日本の漁業従事者の高齢化や若年従業者の激減に伴い、尖閣周辺での操業自体が衰退し、その存在意義に翳りさえ生じてきている。今では中国の漁獲高のほうが多い状況なのだ。

東京都が調査船を派遣した際などには、観光資源にもなるというもっともらしい報道もなされたが、夏から秋にかけては続々と台風が襲来し、冬から春先にかけては北西の季節風が吹き荒れる同諸島一帯に、特殊な体験ツアー愛好者以外、どんな観光客が出向くというのであろう。それでなくても、琉球諸島海域には、より観光に適した有人無人の島々が多数存在している。尖閣諸島の価値を観光に置くなど甚だ非現実的な話なのである。

尖閣諸島周辺の海底資源などに対する中国側の狙いについては、以前からずいぶん報道されている。既に中国は日本との境界線付近の海底を掘削し原油・ガスの採掘を行っているが、日本側は試掘さえ行っていない。中国に比べ採掘コストが高く、採算が合わないからである。右派ナショナリストを自負する猪間明俊・元石油資源開発取締役は、尖閣近辺での自らの学術調査体験を基に、「実際に掘らないと分からないのが資源。仮にあるのが確実でも、掘れなければそれは『資源』ではない。膨大な資金を投入するリスクの大きな事業を国際的に係争している地域であえてする事業者がいますか。実際問題としては日中共同開発意外に道はない」(9月19日付朝日)と語っている。それどころか、近い将来、他に豊富な新エネルギー源が開発されたりしたら、同地の海底資源の価値は激減するおそれもある。民間レベルでの現実的な共同開発を優先し、無益な係争は早期収拾すべきだろう。多数の巡視船の常時派遣費用だけでも相当な高額になってしまう。

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