時流遡航

《時流遡航306》日々諸事遊考(66) ――しばし随想の赴くままに(2023,07,15)

(学校教育現場の人材不足の深層を考察する)
 これまでも折々述べてきたように、初等中等教育課程から大学や大学院などの研究教育機関にまで及ぶ、教育界全体の抱える課題は尽きるところを知らない。それらのなかでも近年とくに憂慮の的となっているのが、初等中等教育課程における教職員の人材不足問題である。小中高の現場における教職員不足は、過度の長時間労働や教育の本質とは無関係な業務内容の煩雑さなどが要因となり、ますます深刻化の度合いを深めている。初等中等教育の現場などでは、生徒のことを心から思い、全力で真摯な教育活動に臨もうとする教師ほど、業務上の負担や責任を過剰に強いられる事態となってきている。一般国民が想像している以上に一連の状況は深刻なものなのであり、教育というものを国の柱と考えるのであれば、我々はあらためてそれらの問題と真剣に対峙しなければならないだろう。
 一昔前の時代にあっては、小中高の教員という職業は周囲の人々からも十分敬意を払われていたし、その業務体系自体も極めて安定していたものである。それゆえ大学新卒者にとっても教職は人気が高く、志望者にも事欠くことはなかった。当時は教員採用試験の倍率は極めて高く、毎年優秀な若手人材が教育界入りしてその分野を支えもしてきた。ところが近年は、採用試験に際しても募集定員割れが起こりかねない状況が生じているうえに、中途退職者や転職者のほうも後を絶たない事態となっているようだ。そんな教育界における昨今の変貌ぶりを目にするにつけても、その容易ならぬ実態には愕然とせざるを得ない。
 教育の現場にあって育ち盛りの生徒を指導するということは、実は通常想定されている以上に大変な仕事なのである。各々の教員は、単に自らが専門とする分野の知識を分かり易く説き伝える能力ばかりでなく、学科横断的な広く深い教養や、個々の生徒たちの抱える様々な問題を温かく受け止めるだけの高い人格的素養を求められる。さらにまた、個別の生活環境や諸々の職業をもつ生徒の保護者らと折々コンタクトしながら、それぞれの生徒に関する情報を適宜相互に伝え合う能力も求められる。そしてそのためには、実務の現場でしか得られない試行錯誤の体験の積み重ねも欠かせない。
 ただ、自立した教師として不可欠なそれらの素養をしっかりと身に付けるまでには、当然ながらそれなりの時間を要する。教育界に憧れて着任したばかりの新人教師などは、程なく。理想と現実の狭間で思い悩むことになる。学校での業務に生き甲斐を感じる一方で、自らの未熟さを自覚させられるがゆえの内面的不安にも晒されることになるからだ。しかも、教育界全般の人材不足の余波もあり、新任早々にベテラン教師同様の学習指導技術を求められたり、膨大な量の生徒個々の成績データや生活情報管理を要請されたりする事態にも直面する。先輩のベテラン教師などから心理的な側面を含めたサポートを受けられるようならまだしも、そうでない場合などは、高い潜在能力を秘め持つ若手人材であっても、当面の自らの対応能力不足や諸々の責任の重さに耐えかね、辞職の道を選びさえもしてしまう。経験豊かな教師のほうも結果的に自己の対応能力を遥かに超えた業務を背負い込むことになり、まともな基礎教育の実践など不可能になってしまうのだ。
 いったい何故このような事態が生じるようになってしまったのか、どうすればそんな状況を回避することができるのか、またその根源的な責任はどこに求められるべきなのか――国民の誰もが真摯にその問題の本質に目を向け、先々の日本文化の発展やその国際的立ち位置を見据えながら、根本的対応策を探る必要があるだろう。この問題の他ならぬ要因のひとつは、国民の多くが表面的な知識の獲得や実益優先主義の色合いの濃い偏った教育観に浸り込み、本来あるべき教育の理念などには無関心になってしまっていることにある。
(敬意の念に無縁となった教員)
 以前は国民の誰からもそれなりに深い敬意が払われていた教育職であるが、バブル期を中心とした日本の経済的価値観優先の時流の中にあって、教職員に対する一般人の尊敬の念は急速に薄れ果てた。経済発展の著しい大都市部などでは、とくにその傾向が強かったように思われる。学校教員というものは、国民の支払う税金や各種授業料などでその給与ほかの生活基盤を支えられているのだから、それなりに苛酷な労働環境であっても、ある程度は我慢すべきだという暗黙の見解が広がってしまったのだ。要するに、教職員は自分たち国民に仕えるべき存在に過ぎないのだから、残業など当然だし、教育方針への異議申し立てや個々の難題への対処要請も必然だとする思考が蔓延するようになったのである。
 その結果、成長期にある生徒たちの心身の発達や将来の人格形成、文化的見識養成に必須な教育の重要性は疎んじられ、教育者とは金を出せば何時でも雇える技術者に過ぎないという誤った概念が生じてしまったわけである。その点に関しては、教育やその分野絡みの表面的知識を巧みにバライエティ化し番組に取り込んだテレビ業界や、入学試験期になると受験校のランク付けや合格者らの背景分析報道に奔走する各種週刊誌の責任も問われるべきだろう。偏差値教育絡みの仰々しい報道をしているが、その奥に見え隠れするのは、視聴率のアップや雑誌の一時的販売部数増大を狙ったビジネス上の思惑に過ぎない。一方、そんな事態の蔭にあっても真剣に生徒の成長を願う教師は、一層窮地に追い込まれていく。
 かつての知人に優れた若い小学校の教師がいた。ある時、彼は生徒の母親から突然の電話をもらい、息子がコンビニで万引きをして警察に身柄を保護されているので迎えに行って欲しいとの要請を受けた。そこで彼は、多忙だったにもかかわらず、自分も極力対応に努める旨を伝え、まずは母親のあなたが率先して対応して欲しいと応答した。すると母親は、これは学校の先生が真っ先にやるべき仕事であり、私は他の業務があるから応じられないと頑なに言い張った。やむなく、彼は自ら警察に出向き生徒の身柄を引き取ったが、内心の思いは複雑極まりなかった。ただそれでもなお、その学校で生徒の教育に専念し続けた。
だが、そんな彼の前途に待ち構えていたのは予想もしない展開だった。他の小学校に転任したあとのこと、保護者会の際にたまたま前の学校での一連の体験談を披露し、それに対する見解を求めた。すると驚いたことに、その場にいた半数以上の保護者らが、まずは生徒の学校生活や教育全般に責任のある先生方が対応すべきだと答えたのだという。衝撃を受けた彼は、自分の教育観と世間のそれとの大きな相違に思い悩み、遂には教職を辞してしまう。何とか彼を引き留めようとした私の思いも空しく、その姿は何処へともなく消え去っていった。これはけっして特別な事例などではなく、昨今の日本の教育界の瀕している憂慮すべき事態や、その問題解決の困難さを象徴する話でもある。詰まるところ、教職員不足やそれに伴う教育環境の悪化は、我々国民個々の社会性劣化に起因しているのだ。

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