(「日本一役に立たない教養講座」のその後)
20年3月1日号の本欄で、府中市民有志が立ち上げた「リベラル・アーツの会」による風変わりな自主講座、「日本一役に立たない教養講座」の開催について述べたことがありました。「役に立つ」ことだけが高く評価されるこの時代にあって、「教養」という実利実益には直接結び付くことのない、すなわち「役に立たない」内容を敢えてテーマにして実践されている特異な講座です。府中民以外の方々でも自由に参加できる極めてオープンなこの講座は、1ヶ月半に1回、年間8回ほどのペースで開催されているのですが、コロナウイルス蔓延の時勢と重なっていたにもかかわらず、先般、第17回を迎えるに至りました。
この身も「リベラル・アーツの会」の一員でありますので、折々講師を務めてきているのですが、コロナ禍の時流ゆえに参加者数も20~30名程度に限られ、運営費も1人1回千円の参加費のみに依存するしかないため、会場利用費や機材借用費、チラシやレジュメ製作費なども必要な当講座の継続は、決して容易ではありません。これまで、著名な評論家の米沢慧氏、元テレビ朝日常務取締役で現在東北福祉大学客員教授の両角晃一氏、中国清華大学招聘教授で国内では創業支援機構理事長を務める紺野大介氏などにも講師を務めてもらいもしたのですが、各氏のご好意に甘んじ、講師料は極めて少額のままで済ませたような次第です。当然ながら、運営スタッフの面々は完全なボランティア状態です。
今年度も、前述した両角氏のほか、蚕学研究の第一人者・横山岳東京農工大学教授、光合成化学分野の先端研究者・高木慎介東京都立大学教授、元国土地理院長・野々村邦夫氏などに、ボランティアに近い条件のもとで講師としてご登場願うよう、目下交渉の最中です。講座の企画や各回の講師の調整役を担う愚身などは、「日本一廉価な講師料の強要講座」ですと自嘲気味の軽口を叩きながら、講師の依頼を打診しているような有様です。
講座参加者の方々の中には錚々たるキャリアをお持ちの方もおありなのですが、幸い、どなたにも庶民のひとりとしてごく自然かつ平等な立場で参加して戴くようにしておりますので、ささやかながらも人材交流の場としての機能も果たしているような次第です。講座の内容そのものは、文字通り「役に立たない教養」であるはずなのですが、互いに未知の参加者同士の出遇いや、それに伴う人的ネットワーク構築の場として多少なりとも役立っているようですから、皮肉と言えば皮肉な話です。たまにですが本誌の編集長などにも足を運んでもらってもいますから、捨てたものではないのかもしれません。
各講師の裁量に一任してある各回の講座内容も、文系理系の枠に捉われない、親しみやすくて魅力的な構成になっていますから、喩え「実利実益」には無縁であっても、受講者諸氏にとっては日常的ストレスの解消くらいにはなることでしょう。高校生などの参加も歓迎していますので、型にはまった受験勉強に疲れ気味の生徒さんらにとっては、ちょっとしたカンフル剤くらいにはなるかもしれません。ただ、そうなると、「日本一役に立たない教養講座」なる売り文句が、「東京一役に立たない」、「多摩地域一役に立たない」となり、そして遂には、「ちょっとだけ役に立つ」レベルにまで萎縮してしまう懸念はあるようです。そう考えてみますと、「役に立たない」ことを貫くのも思いのほか容易ではありません。
(自らの直近講座のご報告まで)
2月5日に催された第17回の講座では自らが講師を務めました。『旅の経験を介して日本の民俗文化を考える――「奥の脇道放浪記」における旅を回顧しつつ』というのがその講演テーマです。紀行作家としての一面をもつ身は、かつて朝日新聞のAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)というコーナーで「マセマティック放浪記」という記事を毎週連載執筆していました。そして、その一連の記事の一環として、99年の秋、12回にわたって「奥の脇道放浪記」という紀行文を綴ったものです。その作品は、執筆時のさらに7年前に若狭の画家渡辺淳さんと共に実践した、東北地方での徹底した貧乏旅行が主題の珍道中記でした。今は亡き渡辺淳さんは、「飢餓海峡」などで知られる著名な作家水上勉氏の作品70点余の挿画や装丁を担当したことでも知られる名うての画家もありました。
その講座で前篇として取り上げたのは、「奥の脇道放浪記」全行程の三分の一ほどに当たる新潟から山形にかけての道中の有様でした。そして同講座の冒頭部では、和島地区や出雲崎一帯を訪ねてみて初めてわかる良寛晩年の暮らしぶりやその墓に纏わる逸話、逝去するまでの4年間にわたる貞心尼との心の交流、弥彦山上で眺めた夕陽や佐渡ヶ島の情景、さらにはそこでの心優しい人々との奇遇などについて述べさせてもらいました。またその中では、以前から深い感銘を覚えてきた大愚良寛の辞世の句、「裏をみせ表をみせて散る紅葉」に対する自らの想いを述べ伝えたりもしてみました。散り去りゆく一枚の紅葉に、死の間際の胸中をそっと重ね詠んだその一句には、良寛の深い心情が偲ばれるからです。「大愚」を自称しつつ善悪を超越して生き抜いた偉人ならではの遺句ではあるのでしょう。
「奥の細道」の旅で芭蕉と曽良が辿ったのとは逆に、新潟から山形方面へと北上する我々の道中譚を進めるなかで、芭蕉が遠く佐渡の地に想いを馳せらせながら吟じたという「荒海や佐渡によこたふ天河」の一句の背景にも触れてみました。芭蕉の「奥の細道」においてはそのことは直接触れられていなのですが、のちに発見された曽良日記には、師匠である芭蕉の佐渡の地に対する密やかな想いが記し残されていたようなのです。芭蕉研究のスペシャリストでもあった故人のドナルド・キーンは、曽良が聞き書きしたというさりげない一言、「罪なきも流されたしや佐渡島」に深く感動し、そこに秘められた想いこそは、芭蕉という人物の「漂泊の精神」の本質を何よりもよく表していると評価しています。
奈良時代から平安、鎌倉、室町、安土桃山の時代を経て江戸期に至るまで、佐渡の地には数々の名だたる貴族や僧侶らが配流されてきました。また、有名無名の多数の罪人らが各時代の都をはじめとする本土各地から次々と流されてきてもいました。悲哀に満ちみちた数々のそんな歴史的事実に想いを馳せながらも、いや、むしろそれゆえにこそ、真の旅人であらんと願う芭蕉は、佐渡という未知の世界に自らも流されてみたいと内心強く望んでもいたようなのです。漂泊の想いここに極まれりというところなのでしょうか……。
佐渡金山遺跡の世界文化遺産登録申請の是非が日韓の間で問題になっているようですが、江戸時代までその金山発掘の苛酷な労働を担ったのは佐渡へと流罪になった数多くの人々でした。昨今の隣国の異質な主張はさておくとしても、佐渡金山の解説資料には 綺麗事ばかりでなく、諸々の昔の負の歴史も隠し立てなく記しおくべきではあるでしょう。なお、3月と4月には、「奥の脇道放浪記講座」の中編・後編を実践することになっています。