時流遡航

《時流遡航252》日々諸事遊考 (12)(2021,04,15)

(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――③)
(湖畔を周回しつつ発見の旅を )
 心に残る旅をしたいと望む者にとっては、大きな湖の周辺地域をのんびりと回遊し、独自の視点に立ちながら、その湖一帯の地域文化や風俗との関係を考察してみるのも一法でしょう。以下に述べる一文などはちょっとした旅ガイドの内容みたいなもので、「自分の旅を創る」という趣旨とはいささか矛盾しているようにも思われるでしょうが、ここはそんな目的を実現するための参考事例までにということでご諒承願えれば幸いです。
例えば、何回かに分けてのんびりと琵琶湖畔を一周し、信長や秀吉の時代の戦乱の痕跡を辿ったり、かつて司馬遼太郎が近江一帯を「文明の十字路」と称したりした背景、さらには「近江商人」なる存在が我が国の発展に果たした役割などについて想いを廻らせてみるのも一興かもしれません。琵琶湖最南端の大津市瀬田付近から流れ出す瀬田川には風情豊かな「瀬田の唐橋」が架かっています。その勢田川は宇治川となり、さらに宇治川は桂川、木津川と合流し淀川となって大阪湾に注ぎ込みます。そんな大津市瀬田を出発し、複雑に砂州や小河川の交錯する東岸沿いの野州一帯を北上すると、近江八幡市に属する安土城址に至ります。琵琶湖一帯の水運を眼下に一望し、地理的にも京都や鈴鹿山脈西麓一帯に睨みを利かせることのできるその地に築城した信長の意図なども、幾らかは察知されたりすることでしょう。大津市を中心とするこの近江地方一帯は、京都を経て西国一帯に通じる山陽道と江戸へと続く東海道との繋ぎ目として、重要な役割を果たしてもいたのです。
 さらに東岸を北上し続けると、やがて彦根に至ります。井伊家代々の居城であった彦根城は国宝にも指定されている名城ですから、その優美な容姿については殊更述べるまでもないでしょう。彦根から米原を経て少し北上すると、琵琶湖北東岸に位置する長浜市に到達します。長浜は羽柴姓の頃の秀吉が居城を構えたことでも知られる土地柄ですが、戦国史に関心のある人なら是非訪ねてみたくなるのは、姉川の合戦跡や浅井長政とお市の方の居城として名高い小谷城の跡でしょう。山上にあるその城址から東方に伊吹山地を望み、西方眼下に琵琶湖北部の湖面とそこに浮かぶ竹生島の影を見下ろしながら、妻のお市や娘3人の命を敵の軍勢に托し、自らは壮絶な最後を遂げた浅井長政の心情に想いを馳せるのも意義深いことかもしれません。その場に佇んでみてこそ初めて思い浮んでくるものもあるからです。長浜から琵琶湖畔最北部に位置する木之元へと向かう途中の高月町渡岸寺には、至上の美仏としか形容しようのない十一面観音像が祀られています。姉川の合戦時に戦火によって焼かれるのを恐れた地元民がその仏像を密かに地中に埋め死守したとも伝えられていますが、京都太秦広隆寺の弥勒菩薩や奈良斑鳩中宮寺の如意輪観音に勝らるとも劣らぬこの十一面観音像の佳麗さは何物にも喩えようがありません。
 木之元から琵琶湖最北端の小さな入江・塩津浜に向かう途中には、賤ヶ岳古戦場の跡地があります。もし時間でもあるようならば、脇道に入り豊臣秀吉と柴田勝家の決戦の場となったその地を踏み、その戦いに敗北して北の庄に逃れ、浅井氏滅亡後に妻に娶ったお市の方共々に自刃して果てた勝家の悲憤に満ちた末路に想いを馳せるのもいいでしょう。
(意外な琵琶湖の交易上の機能)
 塩津浜から日本海沿いの入江に面する敦賀までは、古代から交易路が設けられていました。琵琶湖と日本海とを最短距離で結ぶその陸路は、日本海沿岸各地から海路敦賀へと搬入された諸物資を琵琶湖北端の塩津へと運び込むための役割を果たしていました。塩津というその地名そのものが、日本海産の貴重な塩の運搬用中継地点であったことを物語っています。陸路塩津に搬入された諸物資は、そこから川舟により、琵琶湖、瀬田川、宇治川、桂川、木津川、淀川を介して、京都、奈良、難波、堺をはじめとする畿内各地へと送り込まれていました。江戸時代などにあっては、それら物資の一部は大阪湾一帯で再び大型船に積み換えられ、太平洋沿岸伝いに江戸まで運ばれもしたのでしょう。もちろん、その逆の物資運搬の流れも存在したに相違ありません。山陰、北陸、越後、東北、北海道など日本海沿いの各地にはそんな交易の状況を物語る品々や資料が多々残されているからです。
 琵琶湖北岸沿いに塩津から槇野(まきの)町方面に向かう際、それが車での旅などなら、二つの小さな半島状の地形を廻る奥琵琶湖パークウエイの走行がお勧めです。葛籠尾崎に近い展望台からは宝厳寺のある竹生島や北琵琶湖一帯を眼下に望むことができますし、湖畔に位置する菅浦・大浦の両集落を経て海津大崎を回り槇野町に至る通路一帯は桜の名所で、時節さえ合えば見事な桜並木の光景に接することができるでしょう。槇野町を経て西岸沿いの道に入り、しばらく進むと今津の町に至ります。この今津から若狭の小浜までは峠越えの道路がのびているのですが、この道路もまた、塩津から敦賀へ通じる道と並んで古来の重要な交易路だったのです。天然の地形に恵まれた小浜湾は敦賀と並ぶ良港で、やはり琵琶湖と至近距離にあることから、日本海沿岸各地の産物を北琵琶湖岸に運び込むもうひとつの主要街道として栄えたのでした。ある時代以降は塩津よりも今津のほうが繁栄したとも伝えられています。この今津からは、好天の日なら、穏やかな琵琶湖面を挟んで東方に、百人一首の歌でも名高い伊吹山の山影を望むことができたりもします。
 今津からすぐ隣の安曇川町に入り、湖の東側に連なる比良山地を望みながら少しばかり西岸伝いに南下すると白鬚神社に到達します。この神社は猿田彦命を祭神とする延命長寿祈願の社として知られるところで、社殿から道を挟んで正面側に広がる琵琶湖の水中には朱塗りの大鳥居が立っています。その地点からさらに南下を続け、近江舞子中浜水泳場周辺を通過すると、その辺りからはもう大津市で、前方には近年建設された琵琶湖大橋が見えてきます。その琵琶湖大橋の袂を過ぎると程なく、浮御堂で知られる満月寺に至ります。湖面上に突き出る懸橋の先に設けられたその御堂の優美な景観に心打たれる人は決して少なくないことでしょう。大きく迫る比叡山の山影を右手に望みつつさらに南下を続けると比叡山坂本ケーブルのある坂本地区に至ります。時間でもあれば、眼下に広がる琵琶湖南部一帯の光景を楽しみながら、そのケーブルカーで延暦寺周辺までの往復の旅を試してみるのも一興でしょう。坂本から大津市中心街に向かい、そのあと近江大橋の袂を経てもう一息南下の歩を進めれば、瀬田の唐橋へと到着し琵琶湖一周の旅は完了します。
 琵琶湖畔周遊の旅を通して見えてくる様々な事物や景観について、その概要を一通り述べてきました。ただ、ここで問題となるのは、「文明の十字路」という近江地方に対する見方や「近江商人」という呼称などが、琵琶湖の存在とどう関係したかということです。

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