時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(21)(2019,08,01)

(人類はなぜ歴史というものを必要としているのか )
それが如何なるものであるにしろ、歴史というものが一定の物語性を内に秘めもつこと避けられないと述べましたが、だからといってそれが人間社会にとって無意無益だと主張したいわけではありません。そこに記し伝えられている事象のすべてが真実であるとは限られないにもかかわらず、人類にとってなぜ歴史というものが必要なのかを考えてみることは、万事が慌ただしく変化し続けるこの時代においてはとくに重要なことでしょう。
 例えばこの社会に何か重大な事件が起こったとき、私たちはその真相を知りたいと思うものですし、諸々のメディアなどは極力当該事件の詳細を報道しようとするものです。しかし、どんな事件であるにしろ、その一連の過程には複雑に交錯する人間模様や社会的事情のほか、様々な偶然性が絡んだり介在したりしていますから、視座の取り方によってその様相はそれぞれに異なるものとして認識されることになってしまいます。そもそもこの世のすべての出来事は物理的にも社会心理的にも多面性を持ち具えているものですから、その認識像というものは、ある一面を強調したものか、さもなければ各側面の平均像を提示したものにならざるを得ません。人間の認識能力とは所詮その程度のものに過ぎないからです。ひとつの事件についてさえそんな有様なのですから、一時代さらには一国の全歴史が対象ともなると、そこに不確実な要素やその編纂者の主観的見解、さらには少なからぬ創意などが多々含まれることは避けられません。ただ、それでもなお、私たち人類は自らの歴史を重要視し、さらにはそれに依存しようとします。いったいその根元的理由を何処に求めるべきなのでしょうか。
 この世のすべての事象は、その推移の速度に大きな違いはあるものの、それぞれの命運に導かれるままに刻々と変化を遂げていきます。まさに「無常」という言葉の意味するとおりなのですが、なかでも短い有限の時間のみを生きる諸々の生命体の無常さは際立っています。生命体を構成する個々の細胞は常に激しい代謝を繰り返しながらもその機能と形態を維持し続けようとします。細胞という存在は自らの内部で絶え間なく流動し代謝している成分を適宜制御しながら、その形状をある有限の時間内においては見かけ上一定に保ち守ろうとするのです。それゆえにまた、そのような細胞を無数に集めて構成される生命体のほうも、外見的には一定の姿を維持し続けていくことが可能になるのです。それはまさに、近年「動的平衡」とも呼ばれるようになっている自然界の諸様態、なかでも生命現象という特異なプロセスを支え維持するメカニズムそのものだと考えてもらってよいでしょう。
裏を返せば、生命現象とは、容赦なく流動推移する自然界の時間と空間を、一時的にではあろうとも何とかして一定の状況に留め置こうとする特殊な生体機能なのかもしれません。その段階ではけっして明確な意識下に置かれているわけではありませんが、それは、過去、現在、未来という意識概念の誕生にも繋がる重要な事象だとも言えるでしょう。生命体を一時的に水の淀む淵に喩えれば、上流から流れ込んだ時空の水をしばしそこに留め置き、やがてそれらを下流へと流し去るその淵の姿そのものだということになるのかもしれません。むろん、その淵もまた徐々に姿を変えてはいくわけですが……。
 現世の人類の精神構造は、そんな時空の淵を具え持つ生命体の深化によって生みもたらされたものですから、必然的に、現在の自らの存在意義の証となり、さらには将来の存在の保証ともなる思考体系、すなわち歴史の構築を求めることになるのです。「我われは何処からきたのか、そして何処へいくのか」という誰もが常に内に秘め持つ問いかけは、そのようにして形成された精神構造のもたらす必然の産物とも言えるのかもしれません。
 私たちは、それが悲惨至極な道程であったにしろ、華麗に彩られた道程であったにしろ、自らの歩み来た過去の道筋の概要を整理し、大なり小なりの脚色演出を加えて物語化します。当然、心奥にあって大切に維持されるその物語的自分史の内容は、すべて真実であったりすることも、逆にまたすべて偽りであったりすることもありません。真実がなるべく多くなるようにしながらも幾らかはそうでないものを混ぜ込み、双方を程よく調整しながら仕上げられたものになっているはずです。
そして、それを現在を生きる自らの隠れた支えとしながら、私たちは未知の事象の待ち受ける未来の道程へと向かおうとします。むろん、通常は心に秘めたそんな自分史を人前で顕にすることはありませんが、どうしても自分の存在意義を他者に向かって示さなければならなくなったようなとき、あるいは自らの精神を鼓舞しなければならなくなったとき、それは他に掛け替えのない絶対的な芯柱として表に現れ出てきます。もちろん、一定の高齢に達した人などが、文字化したかたちにして自分史を残し、後世に伝え遺そうとすることもあったりはします。またその一方で、個人としての内的自分史にいまひとつ確信を抱くことができなかったり、そうではなくても自分史だけではその存在を支えるには心もとないと感じるような人の場合には、自己の属する特定の社会集団にその代替機能を求めようとするようになったりもします。国家の存在をその絶対的な拠り所とする国粋主義的な思考などは、絶対的宗教心などと並んでその最たる事例ではあるかもしれません。昨今問題になっている極端なヘイトスピーチの登場などは、そんな思考様態の負の方向への延長上に位置する現象だとも言えるでしょう。
(事実か否かはともかくとして)
 この世の人間は誰しもが何処かの国か何かしらの民族に所属しています。そして、どんな人物であろうとも、たとえ無意識のうちにではあったとしても、大なり小なり自国の歴史や自身の民族史を精神的基盤にして生きています。もしそれを前面否定するような特異な人物がいたとしても、地球外知的生命体でもないかぎり、世界史の流れの中にあることまでを否定することはできないでしょう。そんなことをしてしまったら、自らの思考を司る言語の存在意義さえも全面否定することになってしまうからです。
 国家の起源に関する昔からの歴史物語の数々や諸々の宗教にみる天地創造の教義などには、長い時間をかけて人類が構築した自己存在肯定のための創作物という一面も秘められています。もちろん、そのなかには紛れもない史実も数多く含まれてはいるわけなのですが、その描写も含めてすべてが真実であるとはかぎりません。それゆえ、それらをどこまで信じ肯定するかは各人の自由意思に委ねるしかないでしょう。また近現代史であったとしても、それらを主観的かつ情緒的な視点に立って評価するか、極力主観を抑制した理性的な観点から評価するかによってその意義は大きく異なってくるはずです。ただ、何れの立場をとるにしろ、人類にとって歴史というものが重要であることには変わりありません。

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