時流遡航

《時流遡航275》日々諸事遊考 (35)(2022,04,01)

(現代の旅と旧来の旅との比較考察から見えるもの )
 現代的な旅においては、限られた時間で目的地を巡ることが当然のことになっています。近年の交通機関の飛躍的な発達に伴い迅速な移動が可能になったのが、その要因ではあるでしょう。そのお蔭で、相互間にはそれなりの距離のある複数の名所などを効率的に訪ね廻ることもできるようになりました。自身が生活の基盤としている土地を一時的に離れ、日々の暮らしにつきものの諸々のしがらみを忘れ、旅先の未知の風物に身を委ねながら、ひたすら旅情に酔い痴れるのは、至福な時間にほかなりません。一度その醍醐味を実感したら、その素晴らしさが忘れ難いものになってしまうのも当然のことと言えるでしょう。
 ビジネスや学術上の旅行、作家らによる取材旅行などを別にすれば、現代人の旅の多くは、本人にとって「役に立つ」もの、すなわち、それらを介して旅の当事者らに直接的な実利実益が生じるようなものではありません。日常生活で疲れ果てた心身の保養や活力の再生面では極めて有意義であるとはいえ、経済的利益という観点からすると、それらはおよそ無益なしろものです。何かしら社会的に役に立つことが前提の日常業務を通して得た金銭的利益を、それとは逆の娯楽出費へと転換していくわけですから、その実態は面白いものです。コロナ禍の時勢にあって地方への観光旅行を促す「Go To トラベル」などのようなキャンペーンがなされたりしていますが、それは「経済的余裕のある者は、仕事を休んでも国内各地の困窮地域に出向き、そこで有り金をばら撒き社会貢献をしなさい」と煽っているようなものですから、何とも皮肉な話です。しかもそんなキャンペーンを我物顔で唱える政財界の輩(やから)の多くが、社会貢献には最も無関心な存在ときているのですから。
 ただそんな戯事はともかく、一昔前の旅と現代の旅とがそれぞれに具え持つ特質については、いま少し考察を深めてみることも必要でしょう。昔のそれに較べて高速かつ広域にわたる現代の旅には、移動自体が楽なうえに得られる情報量も各段に多く、各地の多様な風物との出遇いを楽しみながら、日常生活で鬱積したストレスを一挙に発散できるなどの利点はあります。それを通して経済的循環を促すこともできるでしょう。そうしてみると、現代的な旅は良いことずくめのようにも思われるのですが、実際はそうばかりとも言えません。なかでも旅行ガイド情報に依存した名所巡りや集団企画旅行のような、自己主体性に欠けがちの旅においては、それなりに失うものも多々あるからです。
 一口に喩えるなら、高速かつ効率的な移動手段を駆使した現代の広域旅行は、走行中の列車や自動車の窓から次々に移り行く風景を眺め楽しむようなものです。瞬間的には数々の素晴らしい景観との出遇いがあるのですが、人間の記憶力や情報処理能力にはおのずから限界がありますから、それら全ての多様な景観を脳裏深くに刻み込んだり、心奥深くに仕舞い込んだりすることはできません。だからと言ってとくに印象的な風物だけを記憶に留め置こうとしてみても、それはそれで思うほど巧くはいきません。
自身の主体的意志に基づき時間をかけてじっくり体感したものではないゆえに、その風物の情報自体が希薄過ぎ、一時的かつ表面的にはともかくも、生涯心に残るような奥深いものにはなり得ないからです。先々に備え、大量の写真やビデオの記録撮影を行ったとしても、後日それらを細かくチェックするのは容易ではないですし、そのような対応が出来たとしても、実風景をしっかり体感した場合に受けるような深い感動や感銘を味わうことはないでしょう。
 その一方、山行や徒歩旅行、のんびりした僻地探訪、成り行き任せの放浪の旅路などに象徴されるような昔ながらの旅においては、移動速度や移動距離、訪ねることのできる場所は限られたものになってしまいます。しかし、その分、自己主体性が強くゆっくりした展開の旅路ではあるために、偶々出遇った感動的な風物や出来事などを深く心に刻み込むことはできるのです。また、その掛け替えのない体験を介して新たな人生行路との廻り合いに恵まれたり、のちのちまで記憶に残る感慨深い想い出がその人の人生観に大きな影響をもたらしてくれたりすることも少なくありません。とくに、旅先などで生涯の友や師となるような人物との出遇いを求めるつもりなら、徹底した自己主体の道行きを実践するしかありません。幾ら人間的に優れた素養や度量を具え持っている者同士ではあっても、互いに未知な二人の人物が偶然に出遇い、意気投合して親交を結ぶようになるためには、それなりの時間や状況が不可欠だからです。現代風の団体旅行や旅行業者の企画による手取り足取りの観光旅行などを通じては、そんな奇遇に恵まれるのはなかなか難しいことでしょう。
(旅に重ね見る受験教育の現状)
 いささか話は飛躍しますが、そのような旅の状況を顧みるうちに、現代日本の小・中・高生らにみる受験勉強の実態にふと想いを重ねてしまいました。有名進学校や有名大学への合格を目指して表面的な知識の習得にのみ励み、受験業者や著名な進学指導教師らによって敷かれたレールの上を走る生徒らの姿は、現代的な観光旅行者の様態とそっくりです。受験指導のプロなる輩に導かれるままに大量の知識を広く浅く学び、そのお蔭で有名大学に合格はするものの、学究の道に深く傾倒する資質や、進学後に待ち受ける絶対解など存在しない世界に立ち向かうための気力や能力はすっかり削ぎ落とされてしまいます。昨今、「東大まで」という言葉によって象徴されるような「大学まで」の学生が急増し、「大学から」の学生が激減していることは、日本の将来にとって甚だ憂慮すべき事態でしょう。
 ただ、そんな流れの初等中等教育界の中にあっても、マイペースで自己本位な学びの旅をする生徒もいないわけではありません。まるで大きさが異なったり種類が違ったりする果物を同じ1個という数え方をして足し算・引き算をするのは変だと感じる小学生、途中に急な坂道や悪路があると一定速度では進めないから二点間の移動に要する正確な時間など求めようがない首を傾げ考え込む中学生、ある生物の生態や特異な科学現象、さらには特殊な芸術表現などに魅了され夢中なるあまり、他の知識学習を一切放棄してしまう高校生――ともするとそんな生徒たちは学習障害者扱いされてしまいがちです。しかし、彼ら自身のペースで歩みながら敢えて向かい合おうとする知的旅路の風景や、その奥を深く見極めようとする能力こそは、諸々の学術分野の発展にとって不可欠な存在であるはずなのです。過去において天才異才と称された人々の多くは、初等中等学習期においてそんな知的風景の直中をゆっくり旅し続けたことでも知られていますから……。
ごく凡庸なこの身ですが、高校時の物理の時間に「力の定義」の前提が納得できずその正当性の根拠を問うと、「そんなことも理解できないお前に理系は無理だ!」と一蹴されたことが想い出されます。理解できでいないのが教師のほうだったと理解したのはずっとのちのことでしたが……。

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