時流遡航

危機的状況にある我が国の高等教育(3)(2010,12.1)

これまでも度々指摘されてきたように、高等教育機関に対する我が国の財政支出の対GDP比は0.5%とOECD加盟国中で最も低い。OECD加盟国各国の平均値が1%であることからも、事態の深刻さは想像がつくだろう。

高等教育への公的支出は最低

徹底した長期的国家戦略のもとにあって、熾烈な頭脳獲得競争に挑む先進諸国の高等教育投資額は急速に増大している。各国には、「今後は高度な知的創造力を持つ人材の有無こそが国際間における自国の存亡を左右する」との強い認識があるからにほかならない。

その一方、目先の利益や自己保身しか念頭にないわが国の政治家や官僚らの、絶望的なまでの教育行政理念の欠如には、情けなさを通り越し怒りさえも覚えてくる。高等教育費の削減やそれに伴う諸問題を国家の財政危機のせいだけにし、教育行政における自らの愚策や将来への展望のなさを反省すらしない彼らのような存在を容認してきた我われにも、その責任の一端があることは否めない。

今ひとつ問題なのは、高等教育費におけるわが国の私費負担率の大きさだ。その総額の占める割合は対GDP比で0.8%にものぼる。その数値は、ドイツの0.1%、フランスの0.2%、イギリスの0.3%などに比べると異常に高い。高等教育機関に在籍する日本の学生やその親たちの私費負担額は、大多数の先進諸国の私的負担額をはるかに超えていることになる。昨年岡崎で開かれた日本学術会議でもそのことが指摘されていたが、先進諸国の大学院で院生本人やその親たちから授業料を徴収しているのは、いまや日本だけだと言ってもよい。裏を返せば、この事実は、日本の大学院生の能力というものが、研究者としても、社会的な実務者としても十分なレベルには到達していないと評価されていることを物語っている。大学院生の研究業務や諸実務に対しては対価を支払うべきだとする考え方が定着し、高い能力がありさえすれば大学院生でさえも独自の研究室を持つことが許される欧米先進国の状況とは大違いなのだ。

この問題に関して、野依良治・理化学研究所理事長は、「今後は学術界と産業界の双方が真剣になって、国際的に通用するような能力をもつ人材を育成しなければなりません。そのためには、大学院教育の改革や、大学と大学院の完全分離、各大学院間や大学院と産官界との相互流動性の確保などが不可欠です」と語り、さらに、「大学院の授業料は無料化されなければなりません。理工系大学院生などの場合には、年間100万円程の研究費と月額20万円程の労働対価を支給し、院生の立場を考えた大学院運営がなされるべきでしょう。そのかわり院生のアルバイトは全面的に禁止し、研究に専念させるようにしなければなりません」と付言した。もちろん、この野依氏の発言は、海外先進国の状況を参考にし、今後あるべき理想を語ったもので、現在の日本で直ちにそれを実現することは困難だろう。だが、少なくとも、大学院生の授業料の無料化くらいは一刻も早く実現されるべきだろう。

民主党政権によって「子ども手当て」なる政策が実施されたが、平等主義を建前に実際にはそれが必要ではない家庭にまで同額の補助金が支給された。真に困窮している家庭や、経済的理由で勉学に支障をきたしているこどもたちを支援する必要はもちろんある。しかし、こどもを持つ大半の家庭が、「支給してもらえるのはありがたいけれど……」と言いながらも首を傾げるような政策は、単なる選挙目当てのバラマキ政策だと批判されても仕方がない。初等・中等教育における私的負担を軽減することはもちろん望ましく、その意味でも高校授業料の無料化が実現したことは喜ばしい。だが、初等・中等教育への財政支援が優先されるべきだとの理由で、高等教育への国費投入が抑制されるとなると話は別である。

この国には、大学院教育のようなものは特別に選ばれた人だけが受けるものだから、授業料無料化など必要ないとする考えがとても根強い。その結果、きわめて高い研究能力を持つ学生が、授業料や生活費を払うことが困難なため、修士課程や博士課程に進むのを断念するケースも続出している。学界は言うに及ばず、政官界やビジネス界においてさえも博士号取得が責任あるポストに就く条件とされる先進諸国の状況を思うと、科学・技術創造立国を標榜する昨今の日本にとってそれは重大な損失であるばかりか、国力衰退の致命的な原因にもなりかねない。

学術研究への無理解が背景に

経済的に恵まれない大学生が奨学金をもらいならが大学院に進学したまではいいものの、博士課程を修了する頃までには1000万円にも及ぶ負債が残ってしまうという、泣くに泣けない現実も方々で起っている。国家レベルの教育投資の重点をどこに置いたら国力向上に繋がるのか、政治家も、研究機関や教育機関の関係者も、そしてわれわれ一般国民も、この際深く考え直してみる必要がある。重点の所在が不明瞭な戦略なき教育投資は、この国の高等教育のレベルを、ひいては国家の国際的な地位や競争力を急激に低下させるだけである。先に述べたタイムズ誌による今年度の世界トップ200大学のランキングリストにおいて、日本の有名大学が大きく順位を落としたり、ランキングリストから姿を消してしまったりしていることも、そのような状況と無関係だとは言い難い。

欧米先進諸国と違い基礎学術研究の意義が人々によく理解されていないこの国では、学術界への民間からの寄付や支援はきわめて少ない。とくに、個人による教育・学術機関への寄付は驚くほどに少ない。企業による支援もなくはないが、欧米先進国の企業の場合とは異なり、日本企業の支援の多くは目前の実利獲得や実用技術研究優先の紐付き資金がほとんどなので、人類全体の学術文化の向上に貢献するような、またそうでなくても、国益を生むまでには長時間を要する基礎学術研究などへの貢献はほとんど期待できない。近年の日本の企業経営者の多くが、自己の在任期間中の業績向上にしか関心のないこともその遠因だと言われている。あの悪名高きリーマン・ブラザーズでさえも学術界に多額な無条件の寄付を行っていたことを思うと、その違いは明白だろう。ライブドアの堀江貴文氏なども、学術界に多額な寄付でもしていたら、社会的な印象もずいぶんと異なっていたに相違ない。

日本の学術研究の衰退を心底案じる中村宏樹前分子科学研究所長などは、根幹で国の発展を支える学術界への自由な民間寄付が少ない理由として、公的社会事業への寄付が習慣化しすっかり定着している欧米諸国と、社会事業への寄付がほとんど定着していない日本との歴史文化的背景の相違を指摘している。端的に換言するなら、社会への慈善還元を旨とする教会文化と、社会からの慈善奉納を旨とする寺社文化の違いということになる。

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