時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(18)(2015,11,01)

(サイエンスライターの重要性を訴えかける)
 フリーランスのサイエンスライターに対する国内の評価には、甚だ厳しいものがあると言わざるをえない。通常の作家やノンフィクションライター、評論家などに較べて待遇面からみてもずっと低く評価されがちだからだ。一・二冊だけ話題になるような著作を執筆するだけで済むならまだなんとかなりもしようが、生涯にわたる職業としてその仕事を続けるとなるとけっして容易なことではない。欧米社会にあっては、先端科学の世界の伝道師、すなわち、かつてのキリスト教におけるパウロ的な役割を果たす存在としてサイエンスライターを必要不可欠なものとし、高く評価する伝統があるから、職業としても十分に成り立つし、世間の人々からそれなりの敬意も表されている。
 むろん、我が国にもサイエンスライターを名乗る著名人がいくらかは存在するが、筆者の知る限り、出版社その他のメディア関係者が裏で奔走し手取り足取りサポートしているのが実情のようである。真の意味での力量を具え自立したサイエンスライターは国内には極めて少ない。しかもまったく無名であったり、幾分は知名度があっても甚だ厳しい生活状況下に置かれたりしており、存分にその能力を発揮できないでいるのが現状なのだ。
 サイエンスライターと言うと、科学系分野専攻の大学教師や同領域の専門研究に携わっている人物なら誰でも片手間仕事でやれるものだと思われているかもしれないが、実際にはそんな甘いものではない。欧米社会でそれと認知されるような自立したサイエンスライターとなるには、幾つかの前提条件が必要なのだ。言うまでもないが、第一には優れた文章表現能力を持っていなければならい。第二に他国語で執筆された科学文献や諸資料を読みこなせる語学能力が求められる。複数の外国語に通じているならそれに越したことはない。第三に特定の科学領域の専門研究に一定レベルまで携わった経験を有している必要がある。第四に人間社会の思想と思考の根源に深く関わる哲学、すくなくとも科学哲学に精通していなければならない。第五には現代科学全般の概要を押さえる基礎知識、より具体的に言えば諸科学分野の相関性ないしは相対性を十分に理解していることが望まれる。そして最後に、的確な取材力や資料調査力を持ち具えていることが挙げられる。
 随分と厳しい必要条件を並べ立てたが、それらが単なる空論や過大な要求などでないことは、欧米のサイエンスライターの執筆になる優れた作品を読んでみるとすぐに納得がいくだろう。たとえば、筆者の翻訳書に、IT社会の近未来を論じた「人工知能のパラドックス」(サム・ウイリアムズ著、本田成親監訳、工学図書)という書籍があるが、この作品の原作者サム・ウイリアムズというサイエンスライターは米国では必ずしも高名な人物ではない。しかしながら、その作品を読むにつけても、私は、サム・ウイリアムズというライターの教養の高さと思考の深さに驚嘆するばかりであった。
残念なことではあるが、実際問題として、前述したような素養を具え持つ人材は国内では容易には見当たらない。また、たとえ適格者があったとしても、敢えて生計が不安定で社会的評価も低いサイエンスライターの道を本気で目指すようなことはないだろう。
 そこで私は、岡崎コンファレンスセンターでの講演において、国立大学をはじめとする諸大学の中に本格的なサイエンスライターを養成する学科を新設すべきではないかとも提唱した。そして、そこで育てられた人材を国家の様々な科学技術研究開発組織や民間の各種科学研究所の広報部、さらには、諸メディアの科学部などに積極的に雇用してもらうようにすればよいのではないか、そしてまた、それらの中から独自にフリーランスのサイエンスライターを目指す人物が現れるようなら、それはそれで大いに歓迎すべきことではないかと述べさせてもらった。理研やJAXAをはじめとする国内の諸科学系研究機関の広報部が事実上十分には機能していないことを熟知していた私にすれば、それは日本の頭脳集団とでも呼んで差し支えないその場の人々に対する直訴にも似たスピーチだった。
(私見に賛同してくれた人々も)
 いささか心残りではあるが、それから七年半が経過した現在も、サイエンスライターを養成する学科が設けられる具体的な動きはない。ただ、一部の大学では、先端科学の世界などをなるべく端的かつ明瞭に日常言語で説明したり、数理科学と人文科学とを関係づけ、総合的に学んだりする教育は行われるようになってきているようだ。また、近年の映像技術の飛躍的な発展に伴い、諸々の先端科学の研究がテレビなどで極めてリアルに、そして一般人にも解り易く紹介されるようになってきたことは喜ばしいかぎりである。
 映像による科学研究の具体的かつ明快な解説手法は今後も着実な進化を遂げるだろうし、専門研究の学会発表に際しても今や映像は不可欠なものになっている。しかし、多くの人々の心奥まで届くように、そしてそれがしっかりと記憶に刻まれるように重要研究を紹介したり訴えかけたりしたりするためには、言語表現能力、なかでも的確な文章表現能力はなお欠かせない。すべてが画像や短く大まかな文字映像で済む時代は、仮にそんな時代が到来するにしてもまだ遠い未来のことだろう。映画、テレビ映像、アニメ、漫画などをはじめとする現代の映像社会を根底で支えているのは依然として言語文化にほかならないのだ。
 初対面にも拘らず岡崎での講演を契機に交流を持つようになった人々の中には、戯言にも近い私の忌憚ない発言にとりわけ賛同を表してくれた人物があった。それは、成田吉徳九州大学教授(現中部大学教授)、中村宏樹分子科学研究所長(現台湾交通大学招聘教授)、そして理化学研究所播磨研の高田昌樹SPring―8副センター長(現東北大学招聘教授)の三人である。のちに判明したことなのだが、当時「選択」というオピニオン誌で毎月執筆していた科学や教育関係の拙稿を目にして編集部にアクセスし、日本学術会議で講演をして欲しいと私にと働きかけてきたのは、日本第三学術会議理事でもあるこの成田教授だった。化学、なかでも特殊な触媒の研究が専門の成田教授は実に明晰な思考の持ち主で、人文科学系の造詣も深く、確固とした政治理念を内に秘め、文章能力もまた抜群の方だった。以来今日に至るまで、私たちは折々突っ込んだメールの交換を続けている
 中村宏樹分子研所長は東大でも教鞭と執った物理学者で、科学研究における哲学の重要性を深く理解しておられる方だった。中日新聞連載コラムのコピーを頂戴し拝読したが、感銘深いことしきりであった。著作やメールを交換し合う仲にはなったが、中村所長は分子研を定年退職した直後に台湾の名門校・台湾交通大学にヘッドハンティングされた。たとえ高齢ではあっても、理系文系にわたってあれだけ広く優れた見識をもつ人物を学術行政の中枢で活用できない日本という国の構造的欠陥が何とも残念に思われてならいのだ。

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