時流遡航

《時流遡行》コンピュータから見た人間の脳(筆者講演録より)――(2)(2027,02,01)

  (脳の研究を促進させたコンピュータ科学)
 人工知能研究をはじめとする認知科学の発展には、脳の機能解明が不可欠です。人間の大脳の脳神経細胞は140億個ほどだそうですが、それに対して大脳の10分の1の重さしかない小脳の神経細胞は1000億個以上だといわれています。いったいそれはなぜなのかというのは長年の疑問でした。小脳には運動などに関わる2次的な機能しかないというのが従来の見方で、大脳が殿様なら小脳は小間使の家来に過ぎないとみなされてきたわけです。ところが、最近、コンピュータサイエンス側からの脳の研究が進み、小脳の機能について新たな発見がなされました。現代では、脳の研究は、以前のような医学や生理学、病理学的な立場にくわえ、コンピュータを活用した工学的な立場からも実践されるようになっています。工学的な立場から脳を研究する学者は、生理学の研究データをもとにコンピュータで脳の部分モデルやシナプス網のモデルを構築してそのメカニズムの探究に臨んでおり、近年の工学的側面からの脳研究の成果には目を見張るものがあるのです。
 記憶には、「遺伝子的記憶」、すなわち、DNAの中に組み込まれている生物史的記憶があります。次に脳の働きによる後天的な「学習記憶」があるわけですが、これは3つに大別されます。ひとつは脳内の海馬の働きによる短期記憶です。短期記憶を司る海馬という器官は、コンピュータでいうと現在作業中のデータを処理するCPUという演算装置に相当しています。次にコンピュータのハードディスクに相当する長期記憶がありますが、これは記述的記憶と手続き的記憶に分けられます。記述的記憶とは言語をはじめとするいわゆる知識に関係する記憶で、それを実際に処理しているのは大脳です。いっぽう手続的記憶とは、自転車の乗りかたに代表されるように、長い生活の中で体感的に身につき、意識しなくても必要に応じて反射的に現われる行動のベースとなる記憶のことです。運動能力と深く関わるこの手続的記憶を扱うのは小脳です。
小脳が運動能力と関わる手続的記憶を処理する器官だということはいま述べた通りですが、実はそれ以上に重要な機能が小脳にはあるらしいということがわかってきました。小脳欠損者の場合、うまく主語と述語を結びつけることができない、すなわち主語と述語を正しく組み合わせて文章を完成するといった作業が全くできなくなってしまうというのです。言語における単語にみるような意味的知識は大脳で処理しているのですが、最も根源的な発語行動の部分はどうも小脳がコントロールしているらしいのです。自転車を操縦するときに、初心のうちは右に倒れるから左にハンドルを切ろうなどと大脳で思考するからうまくいかず、すぐ倒れそうになる。ところが熟練してくると何も考えなくてもスイスイ乗れるようになる。むろん、その頃には自転車のハンドル操作は小脳によってコントロールされるようになっているのですが、まったく同様のことが言語にも起こるらしいのです。
 言葉を覚えたての子どもは主語と述語の使い分けがうまくできません。しかし大脳を使いながらたどたどしい発語を繰り返すうちに、やがてその処理プロセスを小脳が代替するようになり、そうなるとあとは自然に言葉が話せるようになるというのです。
そこで、1000億個以上もの神経細胞をもつ小脳は、従来考えられていた以上に凄い働きをしているのではないかと考え、そこに光を当てた人がいました。アルツハイマー症の患者の脳をPET(陽電子放射線断層撮影法)を用いて精査し、大脳が機能していないのに小脳の部分が通常以上に激しい活性反応を示していることを発見したのです。本来大脳がやるべき仕事を、大脳が正常に機能しないため小脳が代替しようとして活動しているからではないかと推測されました。また、一流のジャンプ選手やマラソンランナーなどがどこでどうスピードを上げるとかいったイメージトレーニングをしているとき、その選手の脳を同じPETを用いて調べてみると、やはり小脳が強い活性反応を示したのです。どうやら小脳には大脳のシミュレーション機能があって、大脳に不具合が生じたときに備えて待機し、いざというときには大脳をバックアップするようになっているらしいのです。   
(小脳はバイオコンピュータ?)
 次のことは医学の専門家とコンピュータサイエンスの専門家との共同総合研究による成果のひとつなのですが、小脳には、5つの電子素子を3~4本の回線でつないだような構造体がずらりと並んでいることが判明しました。それらがどのような働きをするかは未解明でしたが、ともかく、そんな構造の組織が一定の微小領域に500個ほどセットになって並んでいて、さらにそのセットが3万個も存在している。しかも全部が類似構造をしているため、発見当初から、これは一種のバイオコンピュータではなかろうかと推測されはしました。でもそれがバイオコンピュータだという証明は誰にもできませんでした。当然、それらがどのように機能しているのかについて認知科者らは熱い議論を繰り広げました。
 この問題について斬新な見解を提唱したのは、デビッド・マーというケンブリッジ大学の若手数学者です。具体的な内容は難しいので、要点だけを簡単に話しますと、それは、「小脳内の個々の類似構造(5つの電子素子を3~4本の回線でつないだような構造)同士をつなぐ神経伝達経路シナプスを流れる情報量(電気信号の量)が一定ではなく、可変的、すなわち、その流れに強弱がみられ、それを論理的に説明できるならば、小脳のこの特殊なバイオ回路はコンピュータと同じ機能を持つはずだ」という仮説でした。そこで、世界中の医学者、生理学者、コンピュータサイエンスの研究者、物理学者、化学者、生物学者などがデビッド・マーの仮説を証明しようと懸命に研究に取り組み始めたのです。
 1973年には、かねてから記憶に関係あるといわれてきた海馬の神経細胞に高度の電気刺激を与えると、神経細胞と神経細胞が次々に結びついて網の目状に発達する、いわゆる「シナプス結合」の促進がみられることが立証されました。またその後、大脳についても同様に電気的刺激によるシナプス結合の増幅現象が認められました。ところが不思議なことに、最も多くの神経細胞が集まっている小脳では、電気的刺激や信号を与えてもシナプス結合が増幅されないばかりか、神経伝達繊維シナプスの可変性、すなわち、神経細胞を流れる電気的情報量の変化もまったく検出されなかったのです。一時は、デビッド・マーの仮説は魅力的だが、その証明は絶望的ではないかとさえ考えられるようになりました。
 この問題を解決したのは、東大医学部教授を経て現在は理化学研究所長の要職にある伊藤正男さん(97年本講演当時)です。この伊藤さんと筑波の電気総合研究所の松本元さん(本講演当時で現在は故人)とが、我が国における生理学や基礎工学面からの脳科学研究の最高権威です。ご存知ないかもしれませんが、このご両人は世界的に高名な研究者です。

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