時流遡航

《時流遡航262》日々諸事遊考 (22)(2021,09,15)

(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――⑬)
(気ままな独り旅ゆえの奇遇も)
 第三者が企画した集団旅行や仲間内での慰安旅行などの場合には難しいことなのですが、成り行き任せの気ままな独り旅などにあっては、その人生を大きく左右するような偶然の出遇いに恵まれることも少なくありません。いや、むしろそれは、終始一貫した自然体のもと、総ての判断が自らに委ねられる独り旅ならではの賜物だとでも言うべきなのかもしれません。これまた私自身の回顧譚なので些か申し訳なくは存じますが、ちょっとした実例を紹介しながら、そんな旅の利点について思いを深めていくことに致しましょう。
 ある秋の日の夕刻近くのこと、車を運転しながら天の橋立方面に向かって若狭路を走行していた私は、たまたま、「竹人形文楽の里、若州一滴文庫」と墨書された小さな手作りの案内板を目にしました。一瞬のことでしたので一旦はその地点を通り過ぎ50メートルほど先まで進んだのですが、なぜか「竹人形文楽の里」という表記が気になってしまい、その案内板のとことろまで引き返したのでした。そしてそこで、どうしようかとしばし考え込んだのですが、遂にはこの際だからと意を決し、その表示に従って脇道へと車を乗り入れることにしたのです。そして、10分ほど佐分利川という名の川沿いの道を走ったあと到着したのが、案内板に記されていた「若州一滴文庫」という施設だったのです。そこで私はある人物との運命的な出遇いをすることになったのですが、その時の旅の行程が時間的にも経路的にもあらかじめ細かく計画設定されたものであったなら、その後の自分の人生の展開に大きく関わるそんな奇遇を体験することなどなかったに違いありません。
 その場所を訪ねてはじめて知ったようなわけなのですが、「若州一滴文庫」とは、同地の出身者である著名な作家の水上勉先生が自費で建設なさり、時間をかけて整備拡張された極めてユニークな文化施設だったのです。そこには、膨大な数の書籍類を収蔵した図書室や閲覧コーナーのほか、各種絵画展示室、水上勉先生の執筆関連資料室、竹人形文楽関係の立派な展示室、さらには車椅子劇場と呼ばれる洒落た造りの小劇場などが配置されていたのでした。その施設の詳細な由来や諸々の展示物については、この場でそれ以上のことに触れるのは控えておくことにしますが、ともかくもそこは、何とも魅力的な、そしてまた感慨深いことこのうえない特別な施設でもあったのです。
閉館時刻も間近だったこともあって自分のほかに来訪者は見当たらなかったのですが、その施設の一隅にある作業小屋らしいところからもうもうと煙が立ち昇っているのが眼にとまりました。生来の好奇心に導かれるまま、いったい何事かと思いながらその小屋に近づいてみたところ、偶然そこで、火を焚きながら手作業をしている渡辺淳さんという高齢の人物と廻り合うことになったのです。そして、どこか不思議な存在感を湛えた野良着姿のその人物と立ち話をするうちにすっかりその心意気に共感した私は、相手からの思いがけない誘いの言葉に身を委ね、佐分利上流域沿いの川上いう集落にあるその方のお宅に一晩泊めてもらうことにしたのでした。そのお宅のある集落は、若州一滴文庫から佐分利川の上流方面に向かって車でさらに20分ほど走ったところに位置していました。
 その晩私達は時の経つのも忘れて延々と話し込むことになったのですが、実はこの渡辺さんという人物は、何十巻にものぼる水上勉文学作品の装丁画や挿画家としても知られる若狭在住の名高い農民画家その人にほかならなかったのです。私がその晩案内されたところは、「山椒庵」と呼ばれているアトリエと住居を兼ねた茅葺屋根の古民家なのでした。山椒庵内に飾られた渡辺さんの筆になる数々の絵画も心打たれるものばかりでしたが、その夜、囲炉裏を挟んで渡辺さんから伺った波瀾万丈の人生譚はなんとも感動的なものでした。この稀有な農民画家の秘め持つ人生観やその不可思議な存在感に心底魅了された私は、以後長きにわたって、渡辺さんと願ってもないような親交を結ぶことになったのでした。 
また、この渡辺さんを介して水上勉先生とも懇意になり、様々な文学上の教示を仰ぐことにもなりました。その後、水上先生からの勧めもあって、若州一滴文庫の季刊誌「一滴」上で駄文を綴るようになったのですが、その連載の一環として渡辺淳さんとの思いがけない出遇いを題材にした「佐分利谷の奇遇」という紀行文を執筆しました。そして運命のいたずらとでも言うべきなのでしょうか、図らずもその作品が評価されるところとなり、第2回奥の細道文学賞を受賞する運びになったのです。さらにはその授賞式後の懇親会の場で、同賞の審査委員だったドナルド・キーン、大岡信、尾形仂の3氏と直接歓談する機会にも恵まれ、それを契機にそれら著名な方々と折々親交を結ぶことができるようにもなりました。ただ、それら3人の方々は皆すでに逝去なさってしまわれましたけれども……。
(別の展開のもたらす恩恵にも)
 渡辺さんや水上先生との出遇いは、不束なこの身に別の展開をもたらしてもくれました。縁あって週刊朝日や、かつて存在した朝日新聞のAIC(アサヒ・インターネット・キャスター)というウエッブコーナーでささやかな連載の筆を執るようになった際には、それら駄文記事の毎回の挿絵を渡辺さんは快く担当してくださるようにもなったのでした。さらにまた、文学賞受賞作その他の紀行作品を収録した「星闇の旅路」(自由国民社刊)など幾つかの拙著類の装丁画や挿画を描いてもらうことにもなりました。「還りなき旅路にて」(木耳社刊)という旅歌随想集などは、不束なこの身の文章よりも渡辺さんの筆になる数々挿絵が素晴らしかったお蔭で、それなりの作品として日の目を見たような次第でした。
 当時の若州一滴文庫の車椅子劇場においては、年に一度の恒例行事として「幻夢一夜」という催物が開かれていました。全国から集う聴衆を相手に、数々の著名人が水上勉先生を囲んで対談を繰り広げたり演技を披露したりする催しで、私も裏方としてのお手伝いをしに毎回若狭まで参上したものでした。水上先生の意向もあって、出演者の著名人らも交互に受付をしたり案内役をやったりもするという配慮もなされていただけでなく、一連の公演終了後には水上先生を囲んで内輪の関係者だけによる慰労会が開かれていました。裏方を務める渡辺さんも私もその集まりに参加させられたものですが、そこで、筑紫哲也、永六輔、倉本聡、石川さゆりといった面々をはじめとする諸々の著名人らとも直接歓談したり、それを契機に個人的な交流を結んだりすることもできたりしたものでした。
 信州御牧村(現東御市)八重原にお住まいだった晩年の水上先生のもとに渡辺さんと共に何度も伺い、ご逝去直後の密葬にも参列してお骨を拾い、のちにはその渡辺さんのお骨をも拾わせて戴くことになった不思議なご縁が、成り行き任せの独り旅によってもたらされた結果であることを想うと、旅というものの奥深さにあらためて感銘を覚えるばかりです。

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