時流遡航

《時流遡航271》日々諸事遊考 (31)(2022,02,01)

(未来へと羽ばたく学生の皆さんへ――凡庸な老輩の贈るささやかな想い)――③
さらにまた、これはあくまでもこの老い果てた身の私見には過ぎないのですけれども、学校で教わる各種教科への対応のありかたについては、常々ささやかな思いを抱いてもきました。そこで、そのことについてこの際少しばかり述べさせてもらうことに致します。  
この国の学校教育にあっては、ともすると、国語や社会科の教科書やそこに収められた諸々の内容は、高校や大学受験に必要な知識を学ぶための単なる道具に過ぎないと見なされがちなものです。しかし、それらはけっしてそんな軽々しいものなどではなく、将来の人生において日本文化や国際的な各種文化の本質を学び深めるに際して、貴重な糸口や手掛かりとなる存在なのだと考えておくべきでしょう。なかでも、日本文学や各種の優れた評論類などは、それらを真剣に読み込むと、自己の精神的成長にとって大きく貢献してくれるばかりでなく、先々の国際交流にとっても大いに役立ちもするものなのです。
実際のところ、真の国際交流のためには、自国文化に精通し、その要点を易しくしかも深く他国の人々に伝える能力を具えもつことが必要不可欠だからです。いくら表面的には英語がうまくても、日本文化の本質を的確に伝えることができなければ、文化の異なる外国の人からは真の意味で敬愛されるようなことはありません。
たとえどんなに日本語が巧みな外国人であっても、その人自身の育った国の文化やその文化圏に伴う諸々の知見をしっかりと身につけ、しかも分かり易くかつ興味深くそれらを私たち日本人に語り伝えることができ、そしてまた、その独自の文化によって形成された気品ある人となりを示すことができなければ、たいして関心を持たれないのと同じことなのです。日本語そのものだけのことならば、私たち日本人のほうがずっと巧いにきまっているわけですから……。
ごく最近も、長年イギリスBBC放送のワールドワイド部門で放送記者として活躍している日本人の知人が、「イギリスではただ単に英語が巧い日本人よりも、たとえ英語はたどたどしくても、しっかりした日本文化を身につけ、それらを語れる人のほうがずっと歓迎されるんですよ」と語っていましたが、実際その通りだと思うのです。
長年にわたる文系・理系の分離教育の弊害もあって、数学や物理学、さらには当世流行のAIなどはすべて理系の学術分野だと見做され、文科系分野に進んだ人々からは、それらは自分たちにはまるで無縁で理解不可能な領域だと即断されがちのようです。しかしながら、それらの根元にあるのは、「記号言語」という紛れもない一種の言葉の体系であり、それは文学や哲学、言語学、論理学などといった、日本においては通常文科系学科ともされている分野とも深く繋がる存在なのです。
実際、日本人の著名なAIのスペシャリストにも、俗に言う文科系学部出身者が相当数存在しています。国際的に活躍する海外のAIスペシャリストらにとっては、もちろん文系・理系の思考枠などまったく無意味です。私自身、以前に初期の時代のAIの研究にも少々携わっていた人間ですから、そのことについては十分理解しているつもりです。なお、いささか押し付けがましいのですが、ついでですからちょっとだけ述べておきますと、かつて私が監訳した翻訳本のひとつに「人工知能のパラドックス」(工学図書刊)という作品があります。難しい数式表記など一切ないAI関連の書籍ですが、その世界のことを多面的に、かつとても分かりやすく論じた著作ですので、関心のある方は図書館などで同著を探し、是非とも一読してみてください。その中には、分かり易く整理されたAIの発展史の記述のほか、AIという言葉を生み出したジョン・マッカーシーや、シンギュラリティ(特異点:この言葉は元々トポロジーという数学の研究分野における専門用語でした)という特殊な用語をAIの世界に転用し、「テクニカル・シンギュラリティ(技術的特異点)」という概念を流行させたカールワイツ(現グーグル社CEO)についての話なども収録されています。
(若き日のメモや日記の重要性)
若い皆さんにとっては、何か思い立つことがあったら必ずメモをとるように心掛けるのはとても大切な行為です。その時点ではたいして中身のないものに思われたとしても、若い時代の直感力はとても鋭いものですから、ずっとのちになってから、それらが役立つ日が必ずや訪れてくるものです。ごく手短で内容的にもバラバラで相互に関連性のない思いつきのメモ内容であっても一向に構いません。成人し、さらには熟年齢の身となった段階でそんなメモを目にすることによって、様々な仕事や新たな創造、創作活動などのヒントを得られることも少なくありません。年を取ると総合力は増していきますが、ある物事の奥底を見据える鋭い直観力や、尽きることのない好奇心のほうはどんどん衰えていきます。 
そんな状況に到達した折などに若い日のメモなどをあらためて目にすると、思い掛けない重要な発見に到ったり、そうではなくても何時しか衰退し失われつつある自らの感性力や認識力に気付かされたりし、ハッとさせられることも少なくありません。そんなわけですから、若い時代のメモは捨てたりすることなく大切に保管し続けてください。
人間というものは長い年月を経るうちに、たとえ重要な出来事であっても過去のことはすっかり忘れ去ってしまいがちなものです。未来を見つめて生きる若い時代などには日記の重要性などほとんど感じないものなのですが、高齢になって遠い日々の日記などをめくったりしていると、忘却の彼方にあった懐かしい記憶が蘇ってきたりして、心が洗われたりもするものです。そして、そんな折などには、もし日記がなかったら、それなりには波瀾に満ちていた若き日々の自らの人生の足跡なども空白の存在になっていたことだろうと考えさせられたりもするのです。
本質的な意味からして、日記というものは他人に読ませるために書くものではありませんから、名文を綴る必要などないですし、起こった出来事を何から何まで正直かつ忠実に記述する必要もありません。そもそも、そんなことをしようとしたら文字通り三日坊主で終わってしまうに違いありません。そうではなく、数年連用の当用日記などに、それを読めば自分だけにはその状況を思い浮かべることができるような、ごく短い言葉を記憶再生の鍵として残しておきさえすればそれで事足りるのです。また、「日記」とは言ってもその言葉通りに毎日のように書く必要はありません。一週間に一度、一ケ月に一度程度でも、重要なことのあった時だけ、ずっとのちになってその事柄を思い出すためのヒントとなるような文言を手短に書き遺すだけで十分なのです。要は自らの人生の足跡を顧みかつ確認する手掛かりとして、自分にだけその意味がわかればよいことなのですから……。遠い将来に備えて、日記をつけることを若い皆さんには是非ともお奨めしたいと思うのです。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.