時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その実景探訪(3)(2018,11,01)

(自然数による加減法を裏で支える概念とは)
 ある理論とそれが対象としている現実の世界との間の溝が原因となって生じる諸課題の実態は極めて根深いものであるため、実際問題としてその種の考察遂行は一筋縄ではいきません。そこでで、まずはその入口のところにある数の概念を、なかでも自然数の概念というものをこれから少しばかり考えてみることにしてみましょう。1、2、3……という自然数の概念は、誰しもが容易に理解できる明解そのものの概念だと思われがちなのですが、実を言うと、それほど単純明快なしろものではなさそうなのです。通常、我われは、自然数というものの背景を特に深く考えることなどはせず、長年の生活習慣の中において当然至極なものとしてそれらに慣れ親しみ、それなりに使いこなしもしてきています。そのため、自然数の概念に何の疑問も懐かないようになっているだけのことなのです。これまたどうでもよいことのように思われるかもしれませんが、それなりには意味のあることなので、この際、その問題にも少しばかり好奇の目を向けてみることにしましょう。もっとも、あまり深入りし過ぎると数理哲学の世界につきものの思考の泥沼の渦中に巻き込まれ、身動きがとれなくなってしまう恐れがありますから、そこは遊行の身であることを十分に弁え、遠巻きにしながらその景色を眺めやるだけに留め置きましょう。
 先日のこと、小学一年生になる孫が算数の宿題をやっていました。娘夫婦はその孫には当世流行の早期教育の類などは一切受けさせていませんし、むろん私などがあれこれと口を出したり教えたりすることもありません。かつて通っていた幼稚園も園児らを子どもらしく自然に親しみながら伸び伸びと育てることに重点を置いたところでしたから、多くの幼稚園で行われているような初等的な読み書きや計算の指導などもまったく受けることなく小学校に進みました。そんなわけで、いまだに平仮名の読み書きもたどたどしく、1桁の数の足し算・引き算も指折りしたりしながらのんびりとやっている有り様です。当然ながら、目下のところ小学校での成績は下位のグループに属していて、放課後に習熟度の低い生徒らを対象とした補習授業などを受けたりもしているようです。その気になればそんな孫を教えることができないわけではありませんが、常々私も娘も極力余計な手出しはせず、総てを孫本人のペースに任せ冷静に見守ることにしています。
 そんな孫が相変わらずのんびりとしたペースで算数の問題に取り組む様子を横目で眺めながら、少し離れたところで新聞を読んでいると、娘に向かって疑問を投げかける声が聞こえてきました。「イチゴが3個、リンゴが4個、バナナが2本あるとき、果物は全部で何個ありますかって書いてあるけどさぁ、何でイチゴとリンゴとバナナの数を足せるわけ?……大きさも、形も違うじゃん……それに、バナナだけは「個」じゃなくって「本」って数えるわけでしょ?」
 そんな突然の質問にいささか窮した様子の娘は、半ば誤魔化したようないい加減な返答をし、孫のほうは孫のほうでなお納得がいかないといった表情を浮かべながらも、再び、鉛筆を手にして宿題用紙に向かい始めました。そして、しばらくすると、また面白いことを言い出したのです。それを聞いて私も内心苦笑してしまいました。「花子さんは10個あったイチゴを6個食べました。太郎さんと次郎さんは5個あったリンゴを1個ずつ食べました。イチゴとリンゴとではどちらがよりたくさん残っているでしょうっていう問題、なんで答えはイチゴのほうがたくさん残っているってなるの?」
 それを聞いた娘が思わず、「だってね、イチゴは4個、リンゴは3個残ってるんでしょう……イチゴの数のほうが1個だけ多いじゃないの」と言うと、孫のほうはすぐさま、「だって、リンゴのほうがイチゴよりずっと大きいから、リンゴのほうがたくさん残っているんじゃないの」と食い下がったのです。
 物を数える際につきものの「個」や「本」といった単位の意味や、個数と量との概念の相違などがいまだ認識能力発達途上にある孫の思考中では混沌とした状況にあり、うまく整理がついてないからなのでしょうが、敢えて私はそれを看過しおくことにしました。発達心理学者ジャン・ピアジェの唱えた具体的操作の段階に孫はあるわけで、たとえ時間はかかったとしてもそこでじっくりと試行錯誤を重ね、自らの心中に思考モデルの原型を形成することのほうが大事だと考えたからです。もちろん、正解とされる考え方を大人の視点から教え込むことは容易なのですが、それでは型式操作の段階への移行、すなわち抽象的思考への転換を無理に急がせることになります。ピアジェの指摘に従うなら、形式的操作の段階への移行を急ぎ過ぎると、一時的には思考能力がどんどん高まり知識量も増大し学校などでの成績も向上しはするものの、将来、高度な学術研究などに向かおうとする段階になると必ずや壁に突き当たり、それを越えられなくなってしまうというのです。
(「類」概念のもつ意味とは?)
 現実世界の事物を対象にして足し算や引き算をする場合、その過程や結果が正当化される前提として「類」の概念が存在していることは忘れられてしまいがちです。5羽の雀と10人の人間と15頭の牛の数を足し算しなさいと言われたとしたら、認識様態も思考形式もまるで異なる遠来のエイリアンならともかく、我われ地球人は、そんなことに何の意味があるのかと感じてしまうことでしょう。5+10+15=30という計算はできても、その30という数値に意味を見出すことはまずありません。雀と人と牛とはそれぞれ別の「類」に属しており、それらを数える単位も「羽」、「人」、「頭」と異なっているからです。足し算や引き算というものは基本的には同じ「類」に属する個体群において意味を持つものなのです。ただ、その「類」の概念は状況に応じて拡大が可能です。もし、前述の問題を「動物」という拡大された類概念のもとで考えるなら、30という数には意味が生じますが、その場合には何かしらの新たな単位を創出する必要があるでしょう。
 その意味では、「類」の異なるイチゴとリンゴとバナナの数を足し合わせることに孫が疑問を懐いたのももっともな話ではあるのです。むろん、「果物」にまで類概念を拡大すればそれらの数の加算には意味が生じるわけですが、具体的思考の段階にある孫にはその種の概念を体感的に学習することは容易ではありません。「類」の概念の意義を提唱したのは古代の哲学者アリストテレスで、それは現代のデジタル思考の起源でもあるのですが、各種生物間での厳密な意味での類別定義が不可能なことからもわかるように、それは絶対的概念ではありません。類概念への過度の依存や傾倒が人種差別をはじめとする諸々の弊害をもたらすことだけは認識しておくべきでしょう。「類」とは実に厄介な概念でもあるのです。

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