時流遡航

第33回 東日本大震災の深層を見つめて(13)(2012,03,01)

崎山展望台から女川市街方面に下ると、「廃墟」という言葉しか当て嵌めようのないような凄まじい光景が広がってきた。湾岸一帯が広域にわたって大規模な地盤沈下を起こして海水に浸かり、あちこちで車道も冠水してしまっていた。かつて繁栄を誇っていた各種水産加工施設や観光施設を含む大型商業ビル群が、無残に歪み崩れた鉄骨を晒しながら折からの夕闇に沈もうとしている有り様には鬼気迫るものがであった。ほぼ手付かずの状態で津波被災した市街地全域が放置されたままになっていたので、その光景はよりいっそう衝撃的であった。女川町では平地の諸施設や住宅は完全に壊滅し、死者・行方不明者数は1050名ほどに、また、全壊した住宅数は3020戸にのぼった。

途中から急に狭まる女川湾の構造と、湾奥の平地のすぐ背後に傾斜地が広がる女川町の特殊な地形は、今回の津波の破壊力を予想以上に増幅した。高さ20mの大激浪となって女川市街を襲った津波は一瞬にして平地を呑みこんだ。そして、その運動エネルギーの全てが位置エネルギーへと変わりきるまで斜面を駆け上り、引き波に転じた瞬間からその位置エネルギーを一気に運動エネルギーとして解放しながら再び海へと駆け下った。そのため、岸壁沿いの一帯は一時的に巨大な滝幅を持つ落差8mもの大瀑布と化し、その途方もないエネルギーをもって市街地を破壊し尽くしたのだ。いくつかのビルが長方形の基底部を晒しながら横倒しになっている姿がその事実をなによりもよく物語っていた。

復興計画の進む女川町だが

女川町の場合は、震災から1ヶ月半後には住民や有識者によって構成される「復興計画策定委員会」が立ち上げられ、復興を急がないと町自体の存続が危うくなると懸念する住民との対話を基に、新たな街造りビジョンが提唱された。そのビジョンに基づく復興デザインは、2011年9月8日付の読売新聞紙上に公表されたが、それは津波に対する万全な対策、良好な生活環境、観光事業の発展、着実な漁業の展開などを総合的に考慮したものになっている。また、その計画を着実に遂行するために建築制限地域や市街化調整区域を新たに設け、今回のような大津波にも耐えられる安全かつ機能的な街造りの早期実現を狙っている。半径500mごとに津波避難ビルを建設しようというのもその計画の一端だ。

むろん、迅速なその対応自体は大いに評価すべきものなのだが、まったく先の読めない状況に陥っている岩手や宮城の他の被災地をよそに、被害そのものは他地域以上に甚大と思われる女川町の復興計画だけが急速に進んでいる背景はいささか気になった。そして、いろいろと思いをめぐらすうちに私はある事実に思い至った。東北電力女川原子力発電所のある女川町は、被災した他の市町村と違って原発関連の各種補助金や補償金などがあるから財政的には豊かである。市町村合併が大きく進む中で面積的にはそう広くない女川町だけが石巻市などと合併せずに残ったのは、そのような背景があったからに相違ない。幸いと言うべきか、辛うじてと言うべきかはともかくとして、女川原発は今回の大地震や大津波による損壊をいま一歩のところで被らずに済んだ。女川町の復興計画促進は、おそらく潤沢な原発関連資金を睨んでのことなのであろう。「存亡の危機、女川の奮闘」という大見出しとカラー解説図付きでその復興計画をいち早く報じたのが、日本への原発導入と原発行政推進とに積極的な役割を演じてきた読売新聞だったということは、単なる偶然ではなかったのかもしれない。大震災後、二度目に女川町を訪ねた時には、思うところあって女川原発まで足を運んでみたが、PR館等も完全に閉鎖され、原発施設内部を見学することはまったくできなかった。

石巻を経て仙台空港方面へ

女川町の次に我々が訪ねたのは、この度の大震災で最大の被害を被った石巻市であった。東側に牡鹿半島を控え、南側に向かって大きく緩やかに広がる石巻湾の構造からすれば、通常レベルの津波だったらそう大きな被害を受けずに済んだことだろう。だが、今般の大震災においてはこれまでとは状況が大きく異なった。まず、湾岸沿いの地域が広範囲にわたってひどい地盤沈下を起こし、石巻港やその周辺の運河一帯にその影響が現れた。そして、そこを過去においてもほとんど例のなかったような巨大津波に襲われた。海側に向かって平坦な地形が大きく広がる港湾都市の石巻には、大規模な倉庫や港湾施設、漁業関係施設ばかりでなく、各種大手メーカーの工場をはじめとする大小の工場群が建ち並んでいた。もちろん、一般住宅も数多く存在していた。そこにあの大津波が押し寄せてきたのである。あれこれと結果論を展開するのは容易であるが、湾岸沿い一帯の諸施設や住宅にいた人々が限られた時間内でJR線よりもずっと北側の安全な地域まで避難することは物理的にみて不可能だったと思われる。海岸線から3kmほど離れており、石巻市役所などもあって従来比較的安全だと考えられてきたJR石巻駅周辺地区にも津波が押し寄せ、そこまで流れ着いた漁船が道路を塞いでいる有り様だった。

石巻市の死者・行方不明者数は4000人前後にものぼり、住宅約28000戸が全壊した。被災車両にいたっては21000台にも及んでいる。石巻周辺の各種工場が被災したことにより、国内の大手メーカーの生産体制にも大きな影響が及んだことはメディアを通じて既に報じられている通りである。実際に石巻の被災地域を訪ね歩いてみると、その短期復興が容易でないことはすぐにも想像がついた。

夕闇の迫る石巻をあとにした我々は、比較的被害の少なかった松島や塩釜を経て仙台へと向かった。松島湾に面するこれらの地域にもそれなりの被害はあったし、塩釜港の港湾施設や停泊中だった船舶には相当な損害が生じた。だが、松島湾と石巻湾との間を隔てる洲崎や宮戸島(奥松島)、さらには松島湾内に浮かぶ大小の島々のお蔭でその被害は他の地域に比べて格段に軽微で済んだのだった。

翌日は仙台市の若林地区周辺から、仙台空港のある名取市、岩沼市方面に向かって南下したが、海沿いに延々と広がる被災地一帯の中を通る地方道は寸断され通行不可能になっていたので、仙台東道路を走行せざるを得なかった。この自動車専用道路は、震災当日、寄せ来る津波を押し止める役割を果たすとともに、その一部は緊急の避難場所にもなり、上空から撮影されたその際の生々しい映像が繰り返しテレビで放映されたので、記憶にある方も少なくないだろう。この日なんとか辿り着いた仙台空港周辺は瓦礫の山というよりは広大な瓦礫の海と化しており、空港の極一部だけが辛うじてその機能を果たしている状態だった。

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