時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(3)(2013,04,15)

コンピュータの新機種は電子工学分野の開発技術者の手によって開発されるもので、それらの積み重ねのゆえにコンピュータ社会は発展していくものだと考えられがちなのだが、実はそんなものではない。コンピュータとは、それを機能させるための各種プログラミング言語や、それら言語によって記述構築される諸々のソフトウエアと一体化することによってはじめて機能するものである。基本となる言語やソフトウエアがなかったら、マシンとしては如何に精巧で処理能力が高いものであっても何の役にも立ちはしない。そして、それらプログラミング言語やソフトウエアの開発に貢献するのは、言語学や心理学、文学、哲学、芸術、経済学などをはじめとする社会科学系の素養のある人々であることのほうが多いのだ。物理学や化学、数学などの知識にどんなに長けていても、それだけでは高度なコンピュータシステムを生み出せはしない。コンピュータ用言語や高度なソフトウエアを開発するには、豊富な社会学系知識が不可欠なのである。

70年代に、米国では認知科学という新学問領域が誕生した。最新のコンピュータ技術を軸にし、文系理系の枠を超えたあらゆる学問領域の知識を結集し、ギリシャ時代以来の古典的な問題であった人間の五感や知性、認識能力の根源的解明に取り組もうというのが、その新学問領域の狙いであった。米国を中心にした近年の世界のコンピュータサイエンスは、そのような理念と枠組みのもとに発展してきたのである。

(国内パソコン黎明期の交流録)

そのような観点からすると、私がパソコンを触るようになって間もない80年代初めに、かねてから親交のあった文筆仲間の評論家や雑誌記者らが折々私の仕事場に姿を見せるようになったのも意味あることだった。私はそれらの人々にパソコンのもつ様々な機能を紹介し、幾つかのデモンストレーションを交えながら、将来におけるコンピュータの可能性を語り伝えた。その中には既に著名な評論家だった芹沢俊介さんや、当時は赤塚不二夫担当の週刊文春誌若手記者で、のちに週刊文春や文藝春秋の編集長、さらには文藝春秋出版局長を歴任、現在は文藝春秋社長にとなっている平尾隆弘さんらの姿もあった。

私が関係するコンピュータ科学や数理哲学分野の勉強会においては、社会科学や哲学的な側面からも様々な意見や問題点を提示してもらった。昔からの私の個人的な教え子で、現在では組織論研究の第一人者となっている桑田耕太郎首都大学経営学部長などの姿などもあった。まだ若かった桑田君が、コンピュータ科学にとっても社会科学にとっても微積分学の知識が如何に重要であるかを、文科系・理科系半々の出席者に向かって分かりやすく説き語る様子などは、30年余を経た今でも鮮明な記憶として残っている。

東大では、認知科学や教育学のスペシャリストだった佐伯胖教授らの呼びかけで、当時国内で開発されたばかりの3次元LOGOシステムのデモンストレーションやその機能についての討論会が催されもした。教育学者や教育学専攻の大学院生が参加者の大半を占めていたが、私みたいな数学の研究者や、当時は院生でコンピュータ科学界の新鋭だった中島秀之・現函館未来大学長のような教育学分野以外の専門家なども出席していた。以前から交流のあった中島君は、院生時代の一時期、コンピュータに囲碁を習得させるプログラムの研究をしていたことがあったが、囲碁の勝敗概念や攻防のルールはあまりにも複雑過ぎ、研究を中断せざるを得なかったと語っていたものだ。最近、コンピュータが初めて現役の将棋プロ棋士を破ったとの報道がなされたが、プロの囲碁棋士に挑めるようなコンピュータの開発は現在でもまったく手に負えない状況にある。中島君はその後Prologという優れたコンピュータ言語を開発し、一時代を画すコンピュータ科学の権威になった。

このパソコンの黎明期はむろん、インターネットの前身であるパソコン通信の時代に入っても、新聞各社の記者らの多くはパソコンの可能性について極めて冷淡かつ否定的であった。科学部所属の優秀な一部若手記者はともかく、社会部や政治部をはじめとする主要部局の記者らの多くは、異口同音に「パソコンなんてまだまだ子供騙しみたいなもので、こんなものを使って新聞記事の執筆・編集がしっかりできるようになるまでには、まだ50年くらいはかかるに違いない」などと嘯いていたものだ。新聞制作の全工程がコンピュータ管理されるようになり、主要各紙はデジタル配信に将来の命運を託そうとさえしている昨今の状況からすれば信じられない話である。ただ、大きな時代の変革を前にした人間社会全体の平均的な対応というものは、本来そのようなものであるのかもしれない。

(東京藝術大学からの出講要請)

国内屈指の鍛金作家だった故伊藤廣利東京藝術大学教授から同大学大学院美術教育研究科での講義を要請されたのはこの頃のことである。もともとの大学で私が担当していた位相幾何学や基礎論理学の講義ではなく、コンピュータ科学や数理科学理論、科学哲学などの本質的概念を日常言語のみを用いて講義してもらえないか、というのが藝大側からの依頼だった。藝大には、数理科学の世界の思考概念を易しく噛み砕いて講義できる専門家はいないので、是非協力を願いたいとのことでもあった。さすがに伊藤廣利教授や当時の藝大美術学部長だった平山郁夫教授らの見識は高く、「欧州の各種芸術表現の根幹は、数理科学の基礎を成す論理的な思考体系に支えられている。論理的思考や論理的方法論を学ぶことを抜きにしてはヨーロッパ芸術の真の理解は難しい」と考えていたからである。

己の微力を承知しながらも、結局私は毎年秋の集中講義を条件に藝大へ出講することを決断した。以後20年余に亘って続いたその講座においては、年毎にテーマを変え過去の内容と同じ講義をすることは慎むようにしたので、一連の講義の大半はコンピュータとは無関係な内容となった。ただ、初めの頃には、LOGOやLISPを用いたグラフックや言語処理の理論、人工知能の基本原理、さらには登場間近なパソコン通信システムなどに関する講義を、具体的なデモンストレーションを交えながら実践してみた。

初めて出講した当時、藝大美術研究科には講義用のパソコン自体がまだ存在していなかった。そのため特別にメーカーに依頼し、パソコンを貸与してもらうように手配することから始めなければならなかった。幸い、講義そのものは好評で、他の研究科の院生、助手、若手講師などにも聴講してもらえたばかりでなく、伊藤教授や本郷寛現藝大美術研究科主任教授(当時助手)などにも終始講義に臨席してもった。この時代に出合った院生たちの中には、後に国立大学や私立大学の教授、准教授、博物館や美術館の学芸員、さらには映像関連企業の中心的存在などになり、現在でも個人的に親交のある人物が数多い。

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