時流遡航

第16回 先端光科学研究の世界を訪ねて(8)(2011.6.15)

スプリング8で進められている7分野の基礎研究のうち、忘れてならないのは環境・エネルギー分野の研究と核物理分野の研究である。とくに前者は、東日本大震災に起因する福島第1原子力発電所の重大事故の短期収拾がほぼ絶望的となり、脱原発の動きも活発になるなか、自然環境の保全や代替エネルギー開発に直結する基礎研究分野として大きな注目を集めている。そこで、それらについても概要を紹介しておきたい。

環境・エネルギー科学

人間社会は何らかのかたちでエネルギーを消費するように宿命づけられているため、エネルギーの消費活動に伴って必然的に地球環境への諸々の負荷が生じる。それらの問題を回避してすませるわけにいかないのは当然だが、だからといって環境に対する一連の負荷を解消するような実用的技術を一足飛びに開発することは至難の業である。そのためにはまず、問題となっている現象や事象の根本的なメカニズムを徹底的に解明しなければならない。そのような役割を担っているのが、この基礎科学の研究分野なのである。

スプリング8におけるこの分野での研究で特筆されるのが、多孔性配位高分子に代表されるナノ細孔材料のガス吸着現象のメカニズム解明の業績だ。活性炭などが脱臭や水質浄化に活用されるのは、その表面や内部に無数の微細な穴があって、それらの穴に有害な各種有機物が吸着されるからで、そうした細孔をもつ物質は「ナノ細孔材料」と総称されている。そのなかでも近年注目を集めているのは、銅やコバルトなどの金属イオンと有機分子が結合した多孔性配位高分子である。数グラムでサッカーグラウンドほどの表面積をもつこの特殊人工合成高分子は、水素や酸素をはじめとする多様なガス類を高密度で吸蔵できるばかりでなく、目的や機能に応じたデザインを自在に行うことができる。

スプリング8の粉末結晶構造解析ビームラインを用い、研究者らは多孔性配位高分子が酸素や水素の分子などを吸蔵するメカニズムを世界で初めて解き明かした。とくに電子が1個しかない水素の吸蔵状態を解明することは至難とされていたが、見事にその目的を達成し、高性能燃料電池に不可欠な高い水素吸蔵機能をもつ水素貯蔵材料の開発に道を拓いた。一連の研究は、燃料電池用の優れた水素吸蔵合金として最も期待される水素化マグネシウムの機能解析や電子分布様態の究明、さらにはナノ細孔材料のアセチレンガス吸蔵メカニズムの解明へと進展した。昨年のノーベル賞候補にもノミネートされたこれらナノ細孔材料の研究は、天然ガスの低圧安定吸蔵や温暖化ガスの吸着技術、有害物質の分離法などへの応用、機能的な超伝導材料や磁性材料の開発にもつながるものと期待されている。

製造加工プロセスが複雑なシリコン系半導体を用いた現在の太陽光発電システムは、コストの高さとエネルギー変換効率の低さがネックになっている。そこで注目されたのが製造コストの大幅削減が可能な有機半導体材料だったが、大面積の薄膜化などの加工成形性に富み、高い電子輸送能力をもつ素材がないのが難点だった。硬質な疎水性有機素材の場合は高い伝導性をもつものの加工成形が難しく、一方、液晶のような柔らかい親水性素材の場合は加工性には優れているが伝導性が低いという欠点があったからだ。そのため研究者らは「縮環ポルフィリン銅錯体」という有機分子に着目、その周辺部に疎水性側鎖と親水性側鎖とをもつ「両親媒性」という特性を備えた分子を設計した。そして、スプリング8の放射光を用いた小角X線散乱法によりその優れた構造特性や電子輸送機能の高さを確認、次世代太陽光発電システムの基礎材料開発に成功した。さらに、X線吸収微細構造解析法によって、燃料電池の根源的作動メカニズムや同電池に不可欠な白金触媒の劣化現象の主因を原子レベルで解明することに成功、その結果、燃料電池における高価な白金需要の大幅削減、安価な代替材料開発への国際的な指針が確立された。

ダイオキシンは環境汚染の象徴的存在だが、実を言うとそれは210種類にものぼる塩素系化合物の総称である。ゴミ焼却炉などでのダイオキシン排出抑制については、完全燃焼方式や炉内の厳格な温度管理などの諸対策がとられてきたにもかかわらず、排ガス冷却の過程でダイオキシンが再合成されることが問題となっていた。焼却灰中に含まれる銅原子がダイオキシンの再合成に深く関わっているらしいことが判明、同じくスプリング8のX線吸収微細構造解析法によって、ゴミの焼却過程で銅が酸化されたり還元されたりすることに起因するその複雑なメカニズムが解明された。この研究は早晩新たな排ガス処理システム構築に活かされるものと思われる。

植物のなかには成長過程で周辺土壌から砒素、鉛、カドミウム、クロム、各種放射性元素などの重金属を取り込み、体内に濃縮蓄積するものがある。この蓄積作用を活用して汚染された土壌を浄化するファイトレメディエーション(植物を用いる環境修復)という試みが近年注目されている。ただ、この特殊な現象を実用的な汚染環境浄化技術に発展させるには、植物体内における重金属の振る舞いを知る必要があり、そのためには重金属元素の植物細胞レベルでの分布や化学的様態の解明を行わなければならなかった。それを実現できるのは、X線マイクロビームと蛍光X線分析法を組み合わせたスプリング8の分光分析ビームラインのみだったが、その威力のおかげで研究者らは、世界に先駆け、植物細胞内での重金属元素の蓄積メカニズム解明に成功した。

核物理科学

スプリング8は近年核物理学の研究にも大きな貢献をしている。現代物理学の見地に基づく限り、それ以上分割できないとされる究極の素粒子クオークの研究もそのひとつだ。3個のクオークからできている陽子や中性子などのほかに、4個以上のクオークからなる粒子も理論的には存在可能とされてきたが、その真否を確認でないままに21世紀に入った。クオークは1000兆分の1ミリメートルという超極微な素粒子であるのに加え、1個だけ単独では存在し得ない特異な性質をもつため、その研究は極めて難しい。ところが近年、スプリング8において、8ギガボルト高エネルギー電子ビームとレーザー光とを正面衝突させたときに発するレーザー電子光(逆コンプトンガンマ線という)を水素の陽子にぶつける実験が行われた。その結果、クオーク5個からなる「シータプラス」という粒子が、ロシア人理論物理学者の予言通りに発見された。この粒子は、6種類あるクオークのうちの、アップクオーク2個とダウンクオーク2個、そして反ストレンジクオーク1個からなっており、世界各国の研究所の追試実験でもその事実が確認された。

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