(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――①)
古来、旅というものは人々の心を魅了してきました。土佐日記や更級日記、さらには奥の細道などのような紀行文学の古典が今もなお広く人々の間で愛読されているのも、我われの人生にとって旅というものがそれだけ重要であるからなのでしょう。ただ、費用を惜しむことさえしなければ誰もが容易に遠い世界まで飛翔することができるようになった現代においては、「旅」というものの本質がついつい忘れ去られてしまいがちです。コロナ禍の下で旅そのものが抑制されている折ではありますが、これからしばらくは、ささやかながらも旅の愛好者としての一面をもつ自らの足跡を顧みながら、深く心に残る創造的な旅を実践するために必要な心構えなどについて、私見を述べさせて戴こうと思います。
大局的な観点に立って考えてみるならば、この世に生まれ出た瞬間から既に旅は始まっています。いまこうして時を送っている瞬間も、またその一瞬一瞬に起こる身の周りの出来事の連続も、ひとつの旅の要素にほかなりません。「生」とはそもそも「死」を内有しつつ歩む長い旅路なのであり、それらふたつの概念はけっして二律背反的な存在ではありません。そう考えてみますと、そもそも「旅を創る」という行為は、「人生を創る」ことにほかならなくなってもきます。「往きの命と還りの命」という、親鸞聖人由来の概念がさりげなく象徴しているように、人生そのものが壮大な旅であると常々自覚するように努めておいたほうがよいのかもしれません。ちなみに、「往きの命」とは人生の旅路の全行程のうちで最盛期に向かって激しく命を燃やしつつ生きる道程を、また、「還りの命」とは最盛期を過ぎたあと残りの命の炎の輝きを徐々に抑制していきながら、やがてその炎が静かに消え去るまでの道程を意味しています。
そのいっぽうで、日常生活に深く結びついた現実的な意味での旅というものは、人間の心の成長にとって不可欠な栄養素であると言っても差支えないでしょう。よく用いられる「精神の自立」という言葉は、ある意味では「旅立ち」という言葉と同義語だとも考えることもできるでしょうが、現代の社会状況の中でその意趣を的確に実践するには、ある程度の心身的トレーニングが必要なのかもしれません。「可愛い子には旅をさせよ」という昔からの諺がありますが、子どもばかりかその親までが本来的な意味での「旅」を経験することの少なくなった現代においては、その諺の教えそのものも空疎化していきつつあります。「可愛い子には旅をさせるな」という時代にさえなりつつあると思われるほどに、過保護な親たちが多くなってきたこの時代のことですから……。
(本質的な旅とは何かを考える)
旅先などにおいて、いつも吸い慣れている空気とは異なる空気の流れているところに佇んだりしていると、ちょっとした心身的な不安も生じるかわりに、思いがけないほどにまで五感が鋭く研ぎすまされ、それまで見えなかったものが突然見えてくるようなことがあるものです。それは、知らず知らずのうちに眠ってしまっている精神機能の一部が、旅という行為を通じて再活動しはじめた証拠だと考えてもよいのかもしれません。そのような見地からしてみると、自分なりの旅をプランニングし、それを実践してみることは、総合的な意味での極めて優れたメンタルトレーニングにほかならないとも言えるでしょう。そこには様々な自己成長や自己発見へと繋がる鍵が隠されているからです。
有意義な旅をするにはそれなりの好奇心、換言すれば一種の野次馬精神なるものが不可欠となりますし、そんな精神がなければ旅を通じて様々な発見をすることはできません。それゆえに、その種の心の働きやそれに伴う身体的な高揚感を恥じる必要などないでしょう。昔からある諺に「旅の恥はかきすて」というものがありますが、その諺の意味するところは必ずしも悪いことばかりではないと思うのです。
人間というものは、日常的な環境とは異なるところに急に立たされたりすると、戸惑いを見せたり誤った行動をとったりすることもしばしばです。未知の世界の待ち受ける旅先でそんな事態に遭遇し、そのために恥ずかしい思いをしたとしても、それが真の意味での自己成長にとって役立つ恥であるならば、それは可とするべきでしょう。奥の細道を旅したあの松尾芭蕉だって、ある意味では野次馬精神のかたまりそのものだったに相違ありませんから……。
ひとりの人間が一生を通じて体験する数々の旅のなかでも、未熟な側面の多々残る青少年期の旅というものはとくに重要だと言えるでしょう。若い時代の鋭い感性が旅を通して掴み取るものは、歳をとってからの衰えた感性が把握するものに比べて何倍も大きいからです。さらにまた、若い時にはそれが意義深いものだとは少しも意識していなくても、ずっとのちになってから、ふと甦ってくるその頃の懐かしい旅の想い出や、その折に学んだ数々の事柄が大きな意味をもつようになってくることも少なくありません。
若い時代に日常生活を離れて見知らぬ世界へと旅立つには、大胆さや、ある意味の図太さ、無神経さなどが必要なようにも思われがちですが、必ずしもそれは正しい見方ではありません。その逆の臆病さや慎重さというものは、旅を志す人間にとってけっして負の資質ではないのです。高名な大旅行家、大冒険家には、青春期まではむしろ内攻的だった人が多いくらいですし、著名な作家や芸術家、学者などに関してもそのような特質が見られることが少なくありません。その種の資質を具え持つ人は、時間を十分にかけながら自分の能力と活動の範囲をじわじわと広げていくかわりに、一度その能力と活動の領域を広げさえしたら、あとは自在にその世界の中を駆け巡ることができるようになるものです。しかも、そのようにして徐々に、しかし着実に獲得された固有の世界が、やがてその人の創造的な仕事に繋がっていくこともよく知られている事実です。
ところで、我われにとっての本物の旅とはどのようなものであるべきなのでしょうか。 本来、旅とは、日常性を脱却し、見知らぬ人々や未知の風物との出逢いを求めて異質な空間へと飛び込んで行くことを意味しています。何が起こるかわからないところにこそ旅の醍醐味は秘められていると言ってもよいでしょう。それゆえに、幾らかのリスクや不便さはあってもそれこそが旅なのであり、日常生活にみる便利さや快適さ、絶対的な安全性などを旅に求めるのは好ましいことではないかもしれません。何が起るかわからないからこそ旅なのであり、その意味からすると、「旅は無計画をもって至上とする」と言えないこともありません。したがって、ここでいう創造的な旅とは、大掛かりで高額な費用の要る海外旅行とか、設備の整った高級ホテルに宿泊しながらの優雅な観光旅行のことなどではなく、その人なりの体内リズムにのっとった自己発見のための旅のことを意味しています。