時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――脇道探索開始(9)(2018,05,01)

(哲学的思考は「当たり前の物事」の裏を探る)
 証明という思考過程が適切に機能し、その過程の対象となっている事象の確実さや正しさ、すなわち明証性が導出されるためには、誰もが直感的あるいは直観的にそれを当然かつ正当なものとして受け入れることのできるような前提概念が不可欠だということは既に述べてきた通りです。数学の世界を例にとれば、絶対的な約束事として証明抜きでその正当性を容認することが求められる定義や公理がそれに相当しています。
実際問題として、通常、我われは余程のことがないかぎり、証明の前提となっている定義類の正当性を疑うことはありませんし、証明というものの背後に隠れ潜む闇の世界を垣間見ることなどもまずありません。ですが、哲学的思考というものは、一見したかぎりでは当然至極に思われる明瞭かつ明確そのものの事象にも裏の姿があることを教えてくれるわけなのです。端的に言えば、「当たり前のことが実は当たり前ではない」ことを我われにそっと囁きかけ、たとえ一時的ではあったとしても、知らない間に「当たり前」という名の呪縛地獄に拘束されてしまっている精神をそっと解放してくれるのです。 
「明日太陽が東の空から昇ることを証明しなさい」と言われたとしら、ほとんどの人がそんなこと当たり前じゃないか、証明などする必要もないし、そんな行為には何の意味もないと思うに相違ありません。「太陽は東から昇るものだから明日も東から昇るに決まっている」というわけで、それは、「リンゴはリンゴである」とか「人間は人間である」とかいった証明不可能なトートロジー(同語反復)の命題と同類であるように思われます。しかし、よく考えてみると決してそうではありません。明日太陽が東の空から昇ることは、少々面倒ですが、地球の自転や公転の方向、太陽と地球の天文学的位置関係などが今後も不変であることを前提にすれば、通常の意味では十分証明可能なのです。ただ厳密に言うと、その証明には、「現在の地球と太陽それぞれの運動様態や相互の物理的関係性が今後とも維持されるならば」という暗黙の前提が存在しています。些か屁理屈に過ぎると思われるかもしれませんが、そうしてみると、何かの理由で突然前提が崩れ、それが原因で明日太陽が西から昇ることが絶対ないとは断定できないわけですから、文字通りの意味でその証明が百パーセント正しいということにはなりません。この宇宙の動的事象にまつわる証明というものは大なり小なりそのような宿命を背負っているのです。
 ある事象に関する証明や予知というものは、「その事象を取り巻くこれまでの諸状況や諸条件が今後も同様に続くとすれば」という大前提があってこそ成立したり意味をもったりするものなのだと言えるでしょう。そうしてみると、特定の事象に関わる周辺環境や諸条件が常時変動し続けたり、そうでなくても短期的に大きく変化したりする場合には、その事象についての証明や予知というものはほとんど無意味だということになってしまいます。我われが諸々の証明や予知に寄せる期待には、その種のなんとも厄介な背景が存在しているのです。
「明日は東の空から太陽が昇る」という証明や予知をしてもらったところで、実際問題としては何の有難味もありません。無限に百パーセントに近い確率でその証明や予知は当たるからです。それに対し、「何年何月何時何分何秒に大地震が起こる」ということが科学的に証明されたり正確に予知されたりするなら、社会にとってそれは極めて有意義なのですが、そのような証明や予知はよほどの偶然でもないかぎり当たることはありません。
 我われは的確な証明や予知が不可能に近い事象ほどにその証明や予知を切望するいっぽうで、ごく当たり前のことについての証明や予知はまったく望まないわけなのですが、この論理的に矛盾した行為にこそ、永遠に人間というものの抱える宿命的問題の根幹があると言ってよいでしょう。世の中には、「私の予言は百パーセント当たる」とか、「この予想は絶対外れることがない」とか主張して憚らない人々がいるものですが、もしもそんな予言や予想があるとすれば、それは「明日は東の空から太陽が昇る」という証明や予知などと同類だということになってしまいます。
 話がここまで進むと、そのいっぽうにおいて、数学的な証明の場合などにはその前提として絶対不変の定義や公理があるのだから、その世界における各種の証明やそれに伴う明証性だけは疑いの余地などないものに違いないという意見なども出てくることでしょう。実際、この世に何かひとつくらいは絶対的に信じられる真理があってもよいはずであり、最も身近にその種のものを求めるとすれば、それは数学の世界にほかならないと考える人がいたとしてもおかしくありません。実はその切なる思いには落とし穴があるのですが、そのような信念に陥りかけたのが若き日のバートランド・ラッセルだったのです。のちに数学者さらには哲学者として大成し、その名を世界に馳せらせたラッセルにしてもそうだったのですから、我われ凡人がその気にさせられるのはやむを得ないことでしょう。
(絶対的真理を数学に求めたが)
 幼児期から数学の世界に没頭したというラッセルは、その自叙伝や回想録で幼い頃の自分は数学の世界さえあれば孤独でも何の不安も不満も感じることはなかったと述べています。そして、ケンブリッジ大学に進学するまで友人と呼べるような人物は誰もいなかったのですが、大学に入ると自分と同じような境遇や価値観のもとで育ってきた人々が数多くいることを知り、そこで初めて心を通い合わせる友人知人を持つことができるようになったのだそうです。そんなラッセルのことですから、当然、大学では数学を専攻しましたが、その研究分野でも自分の能力を凌駕する数々の異才たちと出合うことになったのです。
 大学進学以降、不透明極まりない現実社会の様々な矛盾を直に目にし苦悩することになった若いラッセルは、その反動もあってか、唯一彼が絶対的な真理があると信じる数学の世界の価値観を一層心の拠り所とするようになったのです。そして、そんなラッセルをさりげなく諭し諌めたのはほかならぬ先輩数学者のホワイトヘッドだったのです。
彼は、「ラッセル君、君は燦々と降り注ぐ陽光のもとで白く輝くパルテノンの神殿や、どこまでも青く深く透明に澄み渡るエーゲ海の光景こそがこの世界の本質だと信じているのではないだろうか。しかし、夕陽に染まる神殿や海面(うなも)も、月光に浮かぶそれらの光景も、満天の星空の下の、さらには深い闇や嵐の中に見るそれらの景観も皆同様にこの世界のもつ姿にほかならないのだ」という趣旨の言葉を投げかけました。その言葉の裏には数学の世界の真理さえも絶対的なものではないという示唆が込められてもいたのです。その忠言によって開眼させられたラッセルはほどなく自らの価値観を根底から見直すことになっていきました。

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