時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――脇道探索開始(13)(2018,07,01)

(算数の事例に見る具体的操作の段階の意義)
 数理科学や社会科学の根幹を成す論理的思考や、それらの内容を文字表記あるいは記号表記した論理的表現というものは、たとえそれが数式的なものであったとしても、ひとつの言語そのものにほかなりません。それゆえ、その根底にはそれらの思考や表現にとって不可欠な、諸々の定義を含む基本概念が存在しているはずなのです。いま、ごく初歩的な事例を取り上げながら、少しばかりそのあたりのことを考えてみることにしましょう。
 小学校の算数の時間などで、「1時間に4キロメートルの速さで歩く人が、A町からB町まで行くのにちょうど3時間かかりました。A町からB町までの距離は何キロメートルあるでしょうか」という問題が出されたとしてみましょう。もちろん、ほとんどの生徒たちはすぐに12キロメートルだと答え、こんな易しい問題を出すなんて先生は自分たちをバカにしているのではないかとさえ思うかもしれません。ところが、そんな中に1人だけ風変わりな生徒がいて、「先生、僕にはその答えがよく分かりません。A町とB町の間に上り坂や下り坂があったり、歩きやすい舗装された広い道と狭くて歩きにくい泥んこ道があったったりしたら、そしてまた歩くうちに疲れたりしてきたら、歩く速さも違ってくるんじゃないでしょうか」と質問したとします。
 このような場合、多くの教師は、「そんなどうでもいいことなんか考えなくてもいいんだよ!……これは、もしそうだとすればという譬え話なんだから、1時間に4キロ進むと素直に考えておけばそれですむ話なんだ!」と答えるかもしれません。しかしながら、ことはそう単純ではないのです。下手をすると、将来開花するかもしれない異才の芽をその段階で摘み取ってしまうことにもなりかねないからなのです。 
 時速という考え方を支えているのはほかならぬ「平均の概念」です。この平均の概念というものは、ピアジェ流の見地に立てば、形式的操作の段階に属する抽象的な思考概念だということになります。私たちのほとんどは幼少期からその概念を無条件で刷り込まれ、それを当然のことだと受け止めており疑ってみることなどまずありません。それゆえ、そのような変わった生徒を前にしたら、ほとんどの人がその背景を深く考えてみることなど一切せずに、「そんなどうでもいいことなんか……」と即刻対応してしまうに相違ありません。しかし、ほんとうに反省すべきなのは、そんな多くの人々のほうなのです。
 その生徒が言うように、たとえ平坦な道であったとしても、私たちがそこを歩く速度は一定ではありません。もしも現実の状況に則しながらより正確なA町とB町間の歩行所要時間や距離とを知りたいとするならば、せめて分単位で進んだ距離をチェックし、それらを集計するという過程を踏むしかありません。もちろん、秒単位のチェックができれば得られる結果はさらに正確にはなるのでしょうが、そこまでやろうとすると技術的な困難が伴うことになってしまいます。だから、どこかの段階で妥協は必要となるでしょう。
ただ、ここで重要なのは、この遠回りそのもののような思考が、ピアジェの言う具体的操作の段階に属していることなのです。時間単位を短くして環境条件の不均一な道程変化にもっと現実的かつ具体的に対応してみようとする行為には、実は先々学ぶことになる微分や積分の思考概念の芽生えとも言うべきものが潜在してもいるのです。また、さらに深く考えてみると、分単位に基づいて移動距離を算定する場合でも、その過程中には平均の概念が無自覚のうちに忍び込んでもくるのです。厳密に言えば1分間のうちにも1秒間のうちにも、進行速度の微妙な変化は起こるわけですから、時間尺度が微細なものになるにしても、そこにまた平均の概念が入り込んでくることは避けられません。そこで、瞬間的かつ連続的な速度の増加や減少に対応するために「加速度の概念」へと通じる原初的な思考が生まれ、将来においては、それらがまた微分積分の概念とも繋がり、諸々の運動方程式などの深い理解へと進んでいくことになるのです。
(柔軟な内的思考モデル形成を)
 誤解のないように補足しておきますが、むろん、そのような疑問を抱いた生徒がその段階で微分積分の概念や運動方程式の意味を理解したり習得したりすることができるというわけではありません。ここで述べておきたいのは、十分に時間をかけながら、その生徒なりのやりかたで具体的に現実の状況を体験あるいは観察し、そのうえで「速度の概念」に象徴されるような抽象的思考(形式的な操作思考)を身につけていくことが重要だということです。そこまで求める必要はありませんが、もしもその生徒が、速度という考え方は実際の状況に厳密に対応して定められたものではなく、ほどよい妥協の産物、すなわち誰もが無意識のうちにもっともらしく用いている平均の概念によるものなのだと気づくなら、それに越したことはないでしょう。具体的な指摘は省きますが、この種の事例は、角度、重さ、数量、保存則をはじめとする多種多様な概念に広く内在しています。
 端的に言うと、ピアジェは、具体的操作の段階と形式的操作の段階をゆっくりと行き来することによって、初等学習期に内的思考モデルの原型を形成していくことこそが必須なのだと指摘しようとしたのです。初等期にそのような内的思考モデルが形成されておれば、将来、高度な数学や物理の数式などに代表される難解な抽象概念などに出合ったとき、その背後に隠れ広がる具体的世界との関係性を十分に確認し理解することが可能になるのだというわけです。それに対して、初等期に形式的操作の段階への移行を急ぎ過ぎ、具体的事象との関係などを無視して数式などを暗記させると、一時的には能力が上がったようにみえたとしても、やがて大きな壁に突き当たり挫折することになるというのです。
その様態は一律でないのですが、この社会に生きる我われは、複雑な実事象を具体的に分析しそこから理論を構築したり対応策を講じたりする一方、既存の難解な理論や施策に遭遇したとき、それらが対象としている実事象に立ち戻ってその意味を理解し、もしそれらの理論や施策が不十分だと思うようなら、新たな対応を模索していかねばなりません。その種の能力を十分に獲得するには、学習教育の初等期における具体的操作の段階をしっかりと体験するようにしなければならないというのです。その点を疎かにすると、斜面に対応できなくなった軟体動物と同様の運命を辿ることになってしまうかもしれません。
 形式操作の段階において我われが直面することになる諸々の理論というものは、平均の概念に象徴されるように、それに関わる具体的要素の多くを切り捨てることによってはじめて成立しています。それゆえに、それらの理論に限界が生じたとき、我われは具体的操作の段階における体験に倣って実事象に立ち戻り、理論の再構築を図らねばなりません。

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