時流遡航

危機的状況にある我が国の高等教育(6)(2011,1,15)

日本の高等教育が危機的状況にある背景には、当今の学生らの気質の変化や彼らを支える家族の意識の低さなどが垣間見える。「学問を志すのは国民国家のためばかりでなく、人類全体に奉仕するためなのだ」という理念など今やどこ吹く風なのだ。自らの子女の安楽な人生のみを願い経済力にまかせて進学競争に狂奔する親たちと、盆栽そのままに育てられ、自主独立の気概やチャレンジ精神、真の探究心などに乏しい学生らの増大が、この国の高等教育や学術研究の衰退にいっそう拍車をかけている。

大学進学率が50%を超え、大学を選ばなければ志願者全員の進学が可能である時代だが、有名大学進学を目指す受験競争の熾烈さは相変わらずだ。難関大学受験に備え、塾や予備校で小学生時代から特訓に次ぐ特訓を受け、物事には正解があって当たり前との考え方を刷り込まれ、短時間かつ限られた条件下でひたすら正解なるものを追い求めて来た学生が、真の学問に対峙した時に覚える戸惑いは想像に難くない。厳密な論証のうえに成り立つ数学のような分野においてすら絶対解がなかったり容易には正解が求まらなかったりすることは多いが、それこそが学問の世界本来の姿なのである。幼少期から一身に両親の期待を受け、過保護のうえにも過保護な状況の中で天才だの秀才だのと崇められ、挫折感などないままに育ち、己の能力を過信さえした状態で意気揚々と有名大学に進むまではいい。

実にひ弱い現代の秀才たち

だが、そこで待ち受ける巨大な学問の壁に弾き返され、生まれて初めてプライドを打ち砕かれる学生は少なくない。その際に所詮自分も「ただの人」であったことを自覚し、謙虚な気持ちになって今一度学問の壁に挑む心意気のある者はまだ救われる。だが、決定的に傷つくことを恐れる現代の若者の多くは、体よく自己弁解をしながら、自己保身に都合のよい安易な方向へと逃げ出してしまう。なにしろ、大学の入学式に家族総出で列席し、両親みずからが進んで大学生子女の就職活動や就職相談に出向き、いっぽうでは、入学したら友人ができるように世話までするという大学までが現れるご時世である。いまさらチャレンジ精神や自立心を云々することなど、まったく無意味ではあるのかもしれない。

近年、海外への留学生が著しく減少しているとの報道がなされている。それもまた、屈辱も傷心も伴うだろう未知の世界に飛び込んで刻苦勉励することを厭う現代の若者気質のなせる業には違いない。東大のある教授と対談した折に耳にした話などは実に象徴的だった。若い時代に長期留学を経験し海外の学生の自立度の高さを知るその同教授が、自身の研究室の博士課程院生らを同伴し国際学会に出向いたところ、中国、韓国、台湾、シンガポールなどの学生は、ちょっとしたチャンスを見つけては積極的に一流学者に議論を挑むのに、同行の日本人学生らは皆「人工衛星状態」だったのだという。それは昨今の東大のどの研究室にも言えることだと語るその教授の表情は寂しげだった。東大理工学系院生などの場合、そのチャンスはいくらでもあるのに留学しようとはしない。そのような状況は准教授クラスの若手研究者でも同じであるらしい。一定期限でポストの更新がある准教授らの場合は、折角留学の機会に恵まれても、外国滞在中に自分のポストを失うことを恐れて留学を断念することも少なくないようだ。必然的に研究のスケールは小さなものになってしまう。

交流のある何人かの東大博士課程在籍者や同大の准教授らにこの問題についての見解を求めてみると、大半の者から、現在の日本の研究環境は十分に整っているので敢えて海外に出る必要はないと思うとの返答があった。もっともらしくはあるけれど、やはりその返答にはどこか弁解がましい響きが感じられ、少なからず問題だと思わざるをえなかった。前出の教授などは、自分の研究室での日本人研究生のワーク量はアジア各地からの研究留学生の半分以下に過ぎないと嘆いたが、これもまたこの研究室のみにとどまらない話なのだろう。最近東京大学図書館の開館時間が20時30分から深夜の0時30分まで延長されることになったが、それなども、アジア系を中心とする留学生らの強い要望があったからなのだという。

「教育力」より「学育力」を

大学院生や学部生などの研究指導をする場合、指導教官が少しばかり厳しい指摘をしたりすると、泣き出したり、立ち直れないほどに意気消沈してしまう者が多いのも近年見られる特異な現象だと聞く。時代の状況が生み出す過保護のゆえに、人間の成長にとって不可欠な良い意味での挫折感の積み重ねなどまるでなく育った秀才が続出している結果なのだろう。潜在能力の開花を心底願ったうえでの厳しい指導であったとしても、相手には自分の人格を全面否定されたように受け止められてしまうのだから始末が悪い。

昨年の春、取材のために大阪大学に出向いた際に、同大学のある名誉教授との間で最近の学生気質についての話が盛り上がった。まだ大学で教鞭を執っていた頃のことを思い出し、「鉱山にたとえると、専門研究者というものは狭く暗い坑道の最奥にあって、粉塵と汗とにまみれながら絶え間なくツルハシを振るっているようなものなんだ。だから、君たち学生のほうも、坑道の入り口に立って手を引いてもらうのを待っているのではなく、できるなら坑道の半ばくらいまでは自力で歩いて来て欲しい。少々薄暗いかもしれないけれど、先人が掘った坑道がちゃんと続いているのだからね。そこまでだったら迎えに行く側も助かるし、あとの作業も効率よく進むから」と説教したものだと話してみた。するとその教授は爆笑しながら、「今の学生にそんな話は通じませんよ。坑道の入り口ならまだしも、ずっと離れた原っぱに突っ立ったままで、『先生、ここまで迎えに来てください、そして手を取って案内してください!』って懇願される時代なんですから」と、こちらの時代錯誤を諌めるように切り返してきた。苦笑するのみで返す言葉がなかったことは言うまでもない。

OECDによるPISA(国際学習到達度調査)の結果が公表され、フィンランドや韓国などに比べ日本の成績が著しく低かったりするとすぐ大騒ぎになってしまう。むろん成績がよいに越したことはないが、調査対象を「ほぼ義務教育を終えた段階の就学中の生徒」としているうえに、受験者の抽出法にも何かと疑義の多いこの調査に一喜一憂し過ぎるのは問題だ。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、中国、ロシアなど、この調査で日本よりも遥かに成績の悪い国々の高等教育のほうが国際的にはずっと高く評価され、現実にも世界の学術界をリードしてもいる理由を深く考察してみたほうがよい。それらの国々がPISAの結果をあまり気にしていないのは、自国の高等教育政策に何らかの確信があるからなのだ。「教育」とは「教師が教え育てる」ことだが、度が過ぎると「学育」すなわち「自ら学び育つ力」が落ちる。高等教育で重要なのはこの「学育」のほうにほかならない。

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