時流遡航

《時流遡航319》 日々諸事遊考(79) (2024,02,01)

(フェイク情報の飛び交う現代社会を生き抜くには)
 映像技術が飛躍的な発展を遂げる以前は、「写真は嘘をつかない」とか「記録映像は事実を語り伝える」とか称されもし、それら一連の映写技法は諸々の社会的事件の真偽を考察する際の最後の拠り所とされてきた。そして、人々はそれらの技法よってもたらされる諸映像に深い信頼を托してきたものである。もっとも、そんな昔日の時代にあっても、「写真や映像こそ嘘をつく」と断言して憚らない旧知の写真家などもあったものだ。その人物は、ある出版社からの要請で白いハンモックに身を委ねた若き日の広末涼子の姿を撮影したこともある著名な写真家だっただけに、写真や記録映像というものには、撮影者の主観や創作編集の意図が少なからず紛れ込むものであることを自覚してもいたからだろう。また、自らのようなプロの写真家がその気になれば、素人には本物としか思われないような偽装写真を生み出すことなども難しくはないと確信もしていたからに違いない。
だが、そんな人物らの想像力をも遥かに超えた映像制作技術の発達に伴い、最早、時代は、「事実や真実を超越することこそが映像制作の命!――映像の目的は、その真偽にかかわらず人々の想像を超越した世界を広く提示してみせることである」と極論してもよさそうな段階へと突入した。しかも、その傾向は映像の領域のみに留まらず、文系理系の枠を超えたあらゆる言語文化や思想表現の世界、さらには人間社会全般を根底で支える先端科学技術の領域にまで及ぶようになった。なかでも諸々の科学研究やそれらに伴う科学技術というものは、専ら真理の探究に貢献するものとして崇められ続けてきただけに、想像を超えた一連の事態の変容に対応するには、従来とは異なる見識が求められよう。これまで我われは、科学の世界で扱われる諸知識をほぼ無条件で正しいものとして受け入れてきたのだが、最早そうばかりもしてはおられなくなってきたからである。
試行錯誤の連続を常とする自然界対象の基礎科学研究分野ならまだよいが、応用科学の領域、なかでも情報科学のような世界ともなると、既に何処までが真実で何処までが虚偽であるのか専門家にさえも容易には判断がつかない事態が続発してきている。ウクライナやガザでの紛争に関し両陣営から発せられる真贋判定の困難な映像やニュース類の乱舞、先進諸国における政治的フェイク情報の流布合戦などは忌まわしいかぎりである、さらにまた、スーパーコンピュータや生成AIシステムを駆使し、ジキルとハイドの両側面を持つ理論統計学や複雑系理論を多重に絡め介して次々に導出される妥当性判断の不可能な情報の拡散など、最早その類の社会現象を抑制することは不可能なのである。端的に言えば「科学もまた堂々と嘘をつく時代」を迎えるに至ったということになるのだろう。
そう考えてみると、現代社会は既に救い難い絶望的な状況に陥っているようにも思われるのであるが、ただ、だからと言って、必ずしもその判断が絶対的に正しいものだとも言い切れない。SF小説などがその典型であるように、虚構の空間が先導役を務めてくれることによって、後々の世界の一大発展に繋がる社会的エネルギーや革新的技術などが生みもたらされることも少なくないからである。ここは今一度冷静に人間の本性に立ち返り、一筋の光明でも見出すべく、少々開き直って発想の転換を図ってみるのも必要なことなのかもしれない。そもそも、嘘をついて他者を騙したり、逆に騙されたりするのは生来人間の具え持つ特質のひとつであり、過去の歴史を顧みても、それらの習性が常に人間社会にとって負に作用するばかりだとは限らないことも明らかだからなのだ。もともと、我々人間は騙し騙されることによって巧みに個々の人生を歩み重ね続けてきてもいる。皮肉な物言いにはなるのだが、「正直者はバカをみる」という諺を裏返しにした「嘘つき者は得をする」という資本主義的現実があることもまた衆知の事実にほかならい。
(事実と虚構の間を彷徨う人間)
 長年にわたって培われた社会的倫理概念の立場からすれは、諸般にわたる各種情報類は極力真実に近いものであるべきだというのが通念ではある。だが、人間の認識能力の限界を補足するべくして生じる想像力や空想力、さらには妄想力のなせる業により、どんな情報にも幾らかの虚構が紛れ込む。百パーセント真実からなる完璧な情報など始めから存在していない。それゆえ、たとえ悪意はなかったとしても、人間というものは何時の時代も互に騙し合いを続けて来ざるを得なかったわけである。歴然としたそんな事実があるにもかかわらず、現代社会においてフェイクニュースなどが大問題となっているのは、生み出される虚構のレベルがあまりにも壮大かつ深遠だからに違いない。また、騙すにしろ騙されるにしろ、あまりの完成度の高さゆえに何処か人間離れしたとろのあるフェイク像に、極度の違和感を覚えたりするのもその一因ではあるのだろう。
 だが、そうだからと言って、一連のフェイク情報の類をどんなに規制してみても、それらの拡散を抑制することは最早不可能な話である。そもそも高度な科学技術の集積体でもある虚構情報群には数々の利点もあり、未来社会の創造発展にも繋がる要素も多々含まれる。長期的な視点に立てば、未来に向かってそれらを活かしていくしかないだろう。もしそうだとすれば、この際ちょっとした発想の大転換を図ってみるのも一興かもしれない。
 今後の人生にとって騙し騙されることは必要不可欠な必然の流れだと開き直り、真実とか事実とか称される類の雑念を不純なものとして一切排除するように心掛けたとしてみよう。また、そんな理念を掲げた衆人からなる社会があったと考えてみよう。一考したかぎりではそれなりに筋の通った世界ではあるように思われるのだが、事はそんなに甘くはない。極力、真実や事実なる俗念を排除しようとしたにもかかわらず、それら真実や事実なるものの要素が虚構像や虚偽情報群の中に紛れ込んでくるからだ。また、数々のフェイクニュースやフェイク情報こそが命とされる社会にあっては、徹底的にその存在意義が否定されるにもかかわらず、真実や事実のかけらが直接には認識し難い様々な姿をとって密かに忍び込んでくる。そして、やがては手の込んだトゥルーニュースやトゥルー情報となって虚構社会を揺るがすことにもなるだろう。巧みに構成された真実や事実からなる情報群が衆人を変に覚醒させ、守るべき虚構社会を蝕み崩壊させていくというわけだ。
 いったい我々は「事実社会」と「虚構社会」のどちらを選択すべきなのだろう。その問いかけには絶対解など存在せず、詰まるところはそれら両者の間をば、迷いふらつきながら歩み進むほかはない。真実もあり嘘もある世界を宿命として受け入れ、時に応じて真実や事実を重要視したり、逆に虚偽や虚構の直中に立脚点を求めたりしながら、矛盾に満ちみちた人類史を綴っていくしかないのだろう。真実も虚偽も愛するのが人間本来の姿なのである。

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