時流遡航

《時流遡航327》 日々諸事遊考(87) (2024,06,01)

(人類が内有する宿命的自己生存本能について思う)
 収束の気配が全く見えないウクライナとロシア間の紛争、そしてまたイスラエルとハマスとの争乱とその延長にあることが明白なイスラエルとイラン間の空爆の応酬――一歩間違うと世界全体を惨劇の渦中へと巻き込んでしまいかねない大戦乱の火種は尽きるところを知らない。これまでも折々指摘してきたように、我われ人類が背負う宿命というものの深刻さには、絶望感をさえ覚えざるを得ない。この世の全ての生命体がそうであるように、大宇宙の摂理として、ほかならぬ我われ人類の遺伝子の中にも、己の生存に固執すればするほどに、自らを含む種族全体の壊滅を促進してしまいかねないメカニズムが組み込まれているのであろう。諸々の生命体というものは、何らかの外的圧力によってその命の存続が危機的状況に陥ってしまったとき、それまで程よく内奥に抑制されてきた自己生存本能を剥き出しにして辺りかまわず激しく足掻きまくる。結果的にはその個体自らの絶命、さらにはその種全体の衰退と滅亡にも繋がってしまう。そんな一連の生命体存亡の流れは、当然、我われ人類にとっても不可避なものではあるに違いない。
 人間社会の平和と安寧を守るために必要不可欠な諸倫理や諸法体系、国際間条約の類などは、我われの心奥深くに眠る自己生存本能が突然覚醒し暴走する事態を極力抑止することによって成り立っている。この世に生を得た瞬間から、社会動物として他者との宥和関係を最優先するかたちで成育させられる人間などは、その成長過程において無意識のうちに自己生存本能の利己的機能をそれなりに抑制されるようになっている。そしてそんなプロセスを辿るなかで、余程の危機的状況にでも直面しないかぎり、通常、その本能は心奥深くで眠り続けるように仕向けられている。倫理規範や法体系を生み出したり、それらを遵守したりするための前提となる「理性」や「悟性」と称されるものは、そんな自己生存本能を外側からしっかり包み込むかたちで、個々の心身のなかに存在しているわけなのだ。
だが諸々の感情の源泉ともなる自己生存本能は、生命体にとって第一義的な存在であるがゆえに、余程恵まれた環境下にでもないかぎり、生涯その本能を睡眠状態、あるいは半覚醒状態にしたままで人生行路を全うすることなどは至難の業である。たとえそれが一瞬のことではあったとしても、人間誰しもが生涯のうちに一度や二度は不意に身の危険に瀕したり、怒りに震えたりすることがあるものだが、そのような瞬間、自己保全のために反射的に激しく作動するものこそは自己生存本能にほかならない。
その典型的な事例としては、地震、津波、台風などに伴う熾烈な自然災害に直面した際、すべての社会的規範類を一切度外視して必死に己の身を守りに走る行為などが挙げられよう。一息に自己生存本能が覚醒し、当面の危機的状況を生き抜くことが何よりも最優先される結果、理性に基づく通常の倫理観や社会的ルールの如きものは副次的な存在と成り果て、それらの機能を喪失してしまうのだ。もちろん、個々の存在に襲いかかる危機的災害を他者と連携し助け合いながら逃れるという倫理的行動も生じはするものだが、それとても個々人の生存への強い執着が大前提となっている。「生きておればこそ……」のこの世の現実を想うならば、生存欲やそれに根差す生存権の主張なるものは、その善悪にかかわらず人間の存在を根底で支える芯柱なのだから、それを悪として批判するわけにもいかない。
(自己生存本能を悪用する権力者)
 窮極の危機的状況下にあって突然自律的に自己生存本能が覚醒し、劇的に機能するのはやむを得ないことであるが、ここで問題となるのは、専制主義者や独裁主義者に見るような時の権力者が、民衆の心を支配扇動するためにその種の本能を悪用する場合である。何らかの理由で内的自己生存本能を抑制できなくなった絶対的権力者というものは、自らの主義主張に反する者に対して異常なまでの憎悪と敵意を抱くようになり、またそれゆえに、対立する相手から自分が窮地に追い込まれるのではないかという過度の恐怖心にも苛まれるものである。そしてそんなとき、彼らが自己保全の常套手段としているのが、社会の諸情勢に対する恐怖心や絶望感、さらにはそれに伴う憎悪感を過度に煽り立てることによって一般大衆の自己生存本能を揺り起こし、それらを統括制御する手口である。それによって社会的倫理観や法的規範といったような本来あるべき理性的諸機能の制御力が瞬時に失われ、悪辣な指導者らの望む通りの、国民や国家の一大暴走が始まるというわけなのだ。
 たとえ歴史的背景や政治的体制が全く異なる国同士であったとしても、相互の国の指導者や双方の国民に、自己生存本能の劇的暴発を適度に抑制するべく「理性」や「悟性」といった類の心的カバーが機能しているうちはよい。そのような状況下でなら、もしも両者の立場や主義主張に相容れ難い大きな相違があったとしても、まだなお相互間に倫理観重視や法的規範遵守への配慮が働いて相手国の存在意義を認め、相手側に一方的な軍事攻撃を加えたりする暴走行為にまで及ぶことはないからだ。それは現在の日中関係や日露関係、さらには日本と北朝鮮の関係にも言えることである。
 だが、何かしらの理由で過度の支配欲やその裏返しでもある極度の孤立感に陥った権力者らが、その自己生存本能を暴発させ、さらには自らを取り巻く一般大衆の生存本能の異常な覚醒をも煽り立てようと画策した場合には話は別である。まず、彼らは、特定の他国やそれと連携する国々が、強大な武力などによって今にも自国や自国民を殲滅させようとしているといったような虚妄の類を一般大衆の脳裏に刷り刻み込む。
言論統制をはじめとする諸々の巧妙な手段によってそんな虚情報に踊らされ、すっかり洗脳された一般大衆の多くは、極度の恐怖心に苛まれ、遂には自己生存本能を剥き出しにして権力者らの思惑通りに彼らと一体化することになる。そんな非尋常な状況に陥った国家の為政者が、相手側が先に手を出したのだからその報復だという偽情報を国内に流布したうえで関係国への攻撃にでも踏み切れば、最早その収拾は不可能となる。密かに事態を先導した専制的権力者らは、一時的には愚民集団と化した自国の大衆から熱狂的な支持を得られ、その権力基盤はしばし安定化する。だが、必然的に相手国もまたその自己生存本能を剥き出しにして、相応の、さらにはそれ以上の報復に出ざるを得ないから、どちらかが、あるいはその双方がとことん疲弊壊滅するまで一連の戦乱は続くことになってしまう。
「平和ボケ」とは、危機感で民衆の自己生存本能を煽り立て、軍備増強の実践を目指す国策への批判者を揶揄嘲笑する言葉である。だが、苦渋に満ちた長大な人類史を介して到達した理性や悟性の賜物たる倫理観や和平観を敬う人々を誹謗するような、自己生存本能剥き出しの軍備依存候群の人々は、逆に「戦(いくさ)ボケ」とでも酷評されてしかるべきではなかろうか。

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