時流遡航

《時流遡航278》日々諸事遊考 (38)(2022,05,15)

(いま少し醒めた目でウクライナ紛争を見つめる)
 ウクライナ東南部各所ではなお紛争が続き、その混乱が収束する気配は見られません。キーウ近郊の小都市クチャなどで凄惨(せいさん)な手口で殺戮された民間人遺体が多数発見されたとの報道に続き、ロシア軍の占拠が続く南東部地域でも多くの民間人が惨殺(ざんさつ)されたと報じられています。またそれら一連の報道の真偽をめぐっては、ウクライナサイドとロシアサイドの間で激しい応酬(おうしゅう)が繰り広げられています。ウクライナや西側諸国は、悲惨な現場の映像や住民らの証言を基にロシア陣営の戦争犯罪を厳しく糾弾(きゅうだん)していますが、ロシアサイドはその報道はウクライナ側が捏造(ねつぞう)したフェイクニュースだと強硬に主張して譲りません。
ただ、諸々の報道を全体的に考察し冷静な判断を試みるかぎり、ウクライナサイドのニュース映像にたとえ編集・脚色の痕跡(こんせき)が幾分か見受けられるとしても、ロシアサイドによる非人道的で残忍極まりない行為の数々を全面否定できるような状況ではないようです。ましてや、民間人を唯一人たりとも殺害などしていない強弁するロシア側政府高官の姿には呆れ果てるほかありません。多分、保身のためには不可避な対応なのでしょう。
 外相や国連大使にはじまるそんなロシア高官らが、自国の正当性を臆面もなく主張し、時に激しく感情を昂ぶらせながらウクライナ各地の凄惨な映像をフェイクだと一蹴(いっしゅう)する様子を目にすると、極力迅速かつ客観的に事態の真相を検証する手法設定の必要性を痛感します。国連の中立的機関などが即座に行動し、一面的な主張を繰り返すロシア政府高官らの身の安全を十分に保障したうえで、当人たちを当該(とうがい)現場に立ち会わせ、その実態の詳細を直視してもらうようにするのも一法かもしれません。たとえその種の提案なされたとしても、様々な口実のもとにロシア側政府関係者がその対応を拒むことは十分予想されることですが、その際に見られるだろう理不尽な態度や弁明が、彼らの嘘や卑劣さの背景をおのずから物語るくらいの状況は生じ得るでしょう。もちろん、ロシア高官の誰か一人でもその提案に実直に応じ、凄惨な現場に直接臨むようなことがあれば、紛争収拾に繋がる何かしらの糸口くらいは掴めるかもしれません。既に時遅しかもしれませんけれども……。
無論、ウクライナのゼレンスキー大統領とロシアのプーチン大統領との直談判が実現し、紛争下の醜悪(しゅうあく)な事態について忌憚(きたん)なく話し合い、曲がりなりにも善後策を講じていく運びとなればそれに越したことはありません。しかし、プーチン大統領にすれば、相手から数々の残酷行為の責任を舌鋒(ぜっぽう)鋭く追及され、その応対に躊躇(ちゅうちょ)したり、精神的に動揺したりする姿を自国民の前に晒(さら)すわけにはいかないでしょう。それゆえ、極めて有利な前提条件でもないかぎり、自己保身一辺倒のプーチン氏が、そんな会談に応じるはずなどありません。
 人間という名の生命体の内奥に棲(す)み潜む、「生存本能」なる超自己中心的精神機能は甚(はなは)だ厄介な代物です。通常我々はその本能の及ぼす作用を程よく享受しながらも、その存在自体を意識したり実感したりすることなく過ごしています。しかし、その本能を適切に抑制している「理性の壁」とでも称すべきものが、極度の不安や恐怖心などが原因である時突然崩壊し、一気に本能部が噴き出すと、病的なまでに残忍な事態が惹き起こされてしまうのです。倫理道徳や法律などの社会的規範を遵守(じゅんしゅ)する精神は理性の支えがあってこそのものですから、その内的な前提機能が崩壊してしまった人間にとっては、殺人でさえも正当な行為となってしまいます。そのような異常事態が生じても、それが1個人やごく少数の異端者の範囲内に留まっておれば、全体的な社会規範の抑制力が強く働き、殺人事件程度のものはともかくも、大量殺戮が必然の戦乱の如き一大事に発展することはありません。
しかし、専制国家の指導者のような人物にその種の精神的異常事態が生じると只事では済みません。まるで新型コロナウイルス禍の様相そのままに、それまで無垢(むく)そのものだった当該国民へとその病状が感染拡大した途端、国民の間には、自国の存亡が懸(か)かるなら他国への侵略も当然だとする危険な思考が生まれます。その結果生じる戦乱は、理性が大前提の社会規範や国際ルールの力によって収束できるほど安易なものではありません。論理的に考えてみても話の流れは逆なのですから、プーチン一派の無慈悲で強硬な戦略やそれを支持するロシア国民の異様な姿を理性的立場から糾弾してみても無意味なのかもしれません。
(兵士の立場になって考えると)
 敵も味方も生死の瀬戸際に立たされる戦争は、それに関わる全ての人間を狂気へと走らせます。そんな戦乱の最中でも正常な倫理観を固守する者がいたとしても、常時とは逆に、彼らは狂人にほかならないとして苛酷(かこく)な弾圧を被ることになるでしょう。侵攻の最前線に立つロシア兵に対し、ウクライナ軍は民間人を巻き込んだゲリラ戦戦術を交えながら死に物狂いに反撃してきます。対峙する相手を殺戮しなければ自分のほうが殺されるゆえ手抜きは一切できません。敵兵によって惨殺された自軍兵士の遺骸を目にしたりすると、相手に対し自らも同じ行為をしているにもかかわらず、御(ぎょ)し難い怒りが込み上げてもきます。 
またそれと同時に恐怖心の裏返しとも言える蛮勇(ばんゆう)心(しん)と極度の憎悪が一気に高まり、相手兵だけでなく民間人の全てまでもが敵にしか思われなくなってきます。その結果起こるのは、多数の一般人の虐殺(ぎゃくさつ)や拷問(ごうもん)、婦女子強姦、食料や貴重品強奪などに及ぶ、卑劣かつ残忍至極な行為そのものにほかなりません。残虐化するのは相手側も同じです。生死を賭けた極限状況下では、平時穏健で情愛深い人間ほど冷徹(れいてつ)な行動を貫くものだという指摘さえもあるくらいです。しかも、兵士に絶対命令を下し極限状況に彼らを追い込む自国の最高指導者らには、自ら直接責任を負う気など毛頭ないのですから、戦争とはつくづく厄介なものなのです。対応策は理性の壁の再構築しかないのですが、それは容易ではありません。
 ウクライナにおけるロシア軍侵略の実態や、それに対するウクライナ・ロシア両国民の反応を知るにつけても、我々日本人は自国の負の歴史を省みないわけにはいかないでしょう。第2次世界大戦終焉まで、日本軍部は中国大陸や東南アジア各地においてまったく同様の侵略行為を実践し、国民の大多数もそれを支持称賛したのでした。それに伴う戦地での民間人大量殺戮行為にも目を瞑(つむ)ってきたのです。南京事件(15年8月1日、8月15日執筆の本連載参照)などはその象徴的事例なのですが、現代でもそれはフェイクだったと全面否定してやまない著名人もいるくらいです。「大本営発表」の現代版とでも言うべきロシア政府の情報操作の非を責める一方において、我々は自国の過去の愚挙(ぐきょ)を再反省する必要もあるでしょう。また、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争の際、日本が米軍等への物資供給国として莫大な利益を上げたのと同様に、ウクライナ紛争裡で目下暴利を貪っているのが米国や中国かもしれないなどと憶測してみるくらいのことは必要なのかもしれません。

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