時流遡航

第22回 東日本大震災の深層を見つめて(2)(2011,09,15)

2ヶ月前の大地震や大津波の来襲など別世界の出来事だったのではないかと思われるほどに、5月の東北路一帯は明るく輝きわたる若緑の絨毯に覆い尽くされていた。東北自動車道を盛岡インターで降りた我われは、市内を一気に通過すると東に向かう国道455号に入り、まずは陸中海岸国定公園の一角を占める岩泉町の小本浜方面を目指すことにした。三陸海岸を南北に走る国道45号に岩泉町小本付近で合流し、そのあと同国道伝いに宮城、福島方面まで海岸線を南下しようという算段だった。

盛岡を過ぎ玉山牧場などのある山間部に入ると、柔らかな緑の放つ眩いばかりの息吹に我われの心はただただ幻惑されるばかりとなった。折からの陽光に青く煌めく岩洞湖岸を経たあと早坂峠を越え、一面に水芭蕉の咲き誇る早坂高原に差し掛かる頃には、行く手に待ち受けるはずの凄惨な光景などついつい忘れかけるほどに緑の魔法の虜になってしまう始末だった。自然というものが人の心をこのうえなく安らわせる優しさと、凄まじい恐怖と絶望の淵に追い込むほどの冷徹さとを併せ持つことには、いつの時代も変わりはない。ただ、その両面が極端なかたちで同時に表われている皮肉きわまりない東北一帯の現状を思うと、複雑な心情に陥らざるを得なかった。

龍泉洞を経て浜街道へ

太平洋へと流れ込む小本川沿いの道を下ると、ほどなく岩泉町に差し掛かった。すぐ近くにある龍泉洞について同行者に話しかけてみると、まだ訪ねたことがないという。そこで、本来の旅の目から外れはしたものの、折角のことなので、日本三大鍾乳洞の一つとして名高いその龍泉洞に立寄ってみることにした。新緑の季節とあって通常なら観光客で溢れているはずの龍泉洞周辺も、大震災の影響ですっかり客足が途絶えたとみえ、信じ難いほどに閑散としていて周辺の土産物店などはみな開店休業に近いありさまだった。

日本三大鍾乳洞の一つで神秘的な雰囲気も漂う龍泉洞内は貸し切りに近い状態にあって、1時間ほどをかけて洞奥まで往復する間に出合った他の探訪者は僅かに2組だけだった。入り組んだ洞内の探訪路が直接に地震の被害を受けた様子はなかったが、見学コース最奥にある水深98mの第3地底湖は明らかにいつもの透明度を失い、本来なら湖底に設置されたライトによって紺碧に澄んだ輝きを発するはずの湖水がどことなく白っぽくくすんで見えた。おそらく、第3地底湖のずっと奥まで続く未発見や非公開の洞内のどこかで地震による地盤変動が生じ、湖水の透明度にその影響が微妙に表われたものと推測された。

東北地方の経済復興のためにも一日も早く客足が戻ることを願いながら、我われは龍泉洞をあとにして小本へと向かい、ほどなく浜街道と呼ばれる国道45号に入った。そして、いよいよ被災地の海岸線を南下し始めた。まず初めに目指したのは、日本一と謳われた巨大堤防を大津波が軽々と越える映像で知られるようになった宮古市の田老地区だった。田老へと向かう途中で車は緩やかな峠道に差し掛かった。その峠に上がると、そこに小さな道の駅があるのが目にとまったので、一休みするためしばし立寄ってみることにした。我われの財布の中身など知れたものだが、そこで食事をしたり買い物をしたりして、ささやかでも地元のお役に立てればという思いもあってのことだった。駐車場には警備に当たっているらしいパトカーが駐車していたが、よく見ると前部のバンパー上には札幌ナンバーのプレートがついていた。北海道警の支援部隊所属のパトカーだったのだろう。

食後に売店で買い物をしていた同行者が鮭の燻製パックの裏側をしきりに指さすので、何事かと思いながら目を遣ると、そこには一枚の商品表示のシールが貼られていた。商品名称、品名、原材料名、内容量、賞味期限、製造者名などを記したこの種のシールは、通常、専用の印刷機などでしっかり印字されている。ところがなんと、そこに並べられている鮭燻製パックの商品表示シールの文字はすべてボールペンによる手書きになっていたのである。その手書き文字の意味するところは一目瞭然だった。周辺の水産加工所や印刷所などが大地震と大津波に襲われ印刷システムが毀損してしまったために商品表示シールの印字が不可能になり、やむなく大急ぎで手書き表示したものに相違なかった。売られている鮭燻製パックの中身自体は大震災の直前あたりに加工保存され、運良く津波被害を免れたものなのだろうが、それに貼るシールのほうは正規の印字が間に合わなかったのだろう。

この種のシールの表示が手書きだった場合、食品衛生法等からして違法なのかどうかはわからなかったが、全く表示がなければ明らかに違法なのだろうから、出荷業者は必死になって手書きシール作りに専念したに違いない。「商品名称:魚介燻製」、「品名:鮭燻製」という文字も、「原材料名:鮭(国産)、砂糖、食塩、酸味料(リンゴ酸等)」という文字も、さらには「内容量:150g」という表記文字なども、大きさや字体ともにまちまちで一部は滲んだり乱れたりもしており、作業に当たった人々の苦闘のほどが偲ばれてならなかった。

三浦物産株式会社という販売業者の所在地もすぐ近くの集落であることを確認した我々は、その鮭の燻製必パックを必要量以上に買い込み、同様に大量に購入した地元産の乾燥昆布ともどもに車の奥へと積み込んだ。鮭の燻製1パックはその場で開封して試食してみたが、想像していた以上に美味で満足することこのうえなかった。

いよいよ田老地区に入る

その道の駅をあとにし、田老方面に向かってしばらく国道を下ると、「これから先、津波浸水想定地域」と表示された国土交通省設置の警告表示板が現れた。その時はまだ、我々は、「ここまでは津波が来た様子はないよなぁ」と軽い会話を交わした程度で、その警告表示板の背後に秘められる人間というもの宿業については思い至ってなどいなかった。そのことに気づいたのはもうしばらく津波被災地の旅を続けたあとのことだった。

さらに国道を下っていくと、突然、眼下に一面赤茶色に染まった風景が現れた。それまで車窓から眺めていた若緑の景色と不意に迫ってきた錆色の景観との異様な対照に、しばし我々は言葉を失うありさまだった。前方に広がるのはほかならぬ田老の集落、いや、田老集落の跡とでも言ったほうがよい荒れ果てた風景だった。慎重に走れば国道筋はなんとか通行できるように瓦礫が排除されていたが、枝道のほとんどは徒歩でないとまだ近寄れないような状態だった。我々の車は、ほどなく進行方向左手に位置する長大な堤防のそばに出た。これこそが一連の津波被災報道で幾度も映し出された田老の大防潮堤であった。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.