時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (9)(2020,02,01)

(航空機の浮揚力と帆船の推進力との意外な関係性とは)
 揚力の原理を巧みに取り込んだ櫓には、特有の優れた機能が具わっていると述べましたが、実を言うと櫓にもそれなりの欠陥が存在していました。激烈な風浪に見舞われ、海面が泡立ち荒れ狂う日などには、残念ながら櫓はほとんど役に立ちませんでした。その理由は、船が上下左右に激しく揺れるため立って櫓を漕ぐことが難しくなるばかりか、猛烈な浪の突き上げによって櫓全体が浮き上がり、櫓穴が櫓杭から外れてしまうからでした。そんな自然条件下では、漕櫓そのものが不可能な状況に陥ってしまうのが常だったのです。
その点、支えの部分が船側に固定されていて外れにくく、しかも船中に坐したままの姿勢で全身の力を込めて漕ぐことのできる洋式櫂(オール)は、荒れた海に関するかぎり、櫓よりも機能性は高かったのです。満々と水を湛え悠然と流れる河川などの運行には櫓船が重宝されていたのに対し、激流を漕ぎ下るカヌーなどでは櫂(オール)が用いられる状況を想い起こしてもらうとよいでしょう。櫓と櫂(オール)の手動推進具があるなかで、我が国においては、古来、櫓が重用されてきたわけなのですが、その理由は、巷の漁師や貨物の運搬業者にとっては、通常の自然条件下での業務や操船遂行の場合、そのほうが便利だったからに相違ありません。
 なお、少々力学の問題に深入りすることになりますが、かつて揚力が船の推進力に用いられていたより顕著な事例がありますので、この際、それについても述べておくことにしましょう。エンジン付き船舶が普及した現代では、博物館にでも足を運ばなければその姿を偲ぶことさえできなくなった帆船類ですが、実はその推進力を生み出す帆にも揚力が深く関係していたのです。ヨットの操縦体験者や昨今のウインドサーファーならそのことを理解していることでしょうが、一般の人々にはその事実はほとんど知られておりません。 
幼少時代、たまには帆掛け船の走行ぶりを眺めたり体感したりする機会のあった私でさえも、そんな帆の意外なメカニズムを知り、なるほどと納得したのは、のちのち多少の物理学的な知識やそれなりの思考力を身につけるようになってからのことでした。 
かつては海上交通の主役であった帆船ですが、現代社会に生きる私たちは最早そんな存在には殆ど関心を抱いておりません。ましてや帆そのもののメカニズムについてとなると、風力を推進力に変えるという漠然とした知識くらいしか持ち合わせておりません。しかも、私たち一般人の多くは、帆船は進行方向に向かって後方側から吹いてくる風、いわゆる順風によって推進力を得るものだという常識に毒され切ってしまっているのです。常識というものは日常生活にとって重要なものですが、絶対的なものだとはかぎりませんから、時にはそれが真に正しいかどうかを検証してみる必要もあるでしょう。裏を返せば、常識を疑ってみることもまた哲学の役割のひとつにほかならないわけなので、その意味ではこの帆の一件などはまたとない思考トレーニングの適例だと言ってもよいのかもしれません。
(帆船の推進力を生み出す原理)
 問題の核心に的確に迫るため、話を単純化し、一枚の帆を一本だけ立てた昔ながらの帆掛け船を考えてみることにしましょう。また、その船はとくには複雑な海流や潮流の動きなどのない海面を走行中だと仮定してみましょう。そして、その帆の真後ろから秒速5メートルほどの風が吹いていたとしてみます。常識的な視点に立つかぎり、それは文字通りに順風そのものの状況なのですが、この場合にはその帆掛け船の速度は最大でも秒速5メートル以上にはなりません。実際には船の構造やその重量、海水の抵抗力などが関係してきますから、その船の秒速は5メートルよりずっと遅い速度になってくるはずです。たとえ順風とはいっても、これでは帆掛け船が前進することは容易ではありません。
ましてや風の方向が進行方向の斜め後方や真横、斜め前方、さらには完全な逆風だったりしたら、常識的な意味での順風の場合より船の速度はずっと落ちてしまうか、さもなければ後方へと押し戻され、まったく前進できない状況に陥ってしまいそうな気がします。このような見解が本当に正しいとすれば、常時微妙に風向きの変わる海上を帆掛け船が航行するのは容易なことではないでしょう。ただ、実を言いますと、このような見方には、多くの人々が陥ってしまいがちな常識的思考特有の落とし穴が潜んでいるのです。
 いまその秒速5メートルの風が船の真横方向、すなわち帆の断面とほぼ平行な方向から吹いていたとしましょう。真横方向であれば、左舷側からでも右舷側からにもかまいません。この場合、どんなことが起こるのでしょうか。帆の断面は前部が緩やかに膨らんだ形になっています。すると、飛行機の翼の場合と同様に、風の流れ、すなわち気流に対して垂直な方向から、帆の膨らんだ側、すなわち船の前方に向かって強い揚力が働き、その圧力が帆全体を前方に押し出すことによって大きな推進力が生じるというわけなのです。重い飛行機の機体を浮上させる揚力のメカニズムから想像できるように、帆に生じる揚力は風速自体よりも大きな速度の推進力を船にもたらしてくれさえするのです。もし、順風という言葉が「帆走船に最も大きな推進力を与えてくれる風向き」という意味だとすれば、帆の真後ろからではなく帆の真横から吹いてくる風ということになるでしょう。
 進行方向の斜め前方や斜め後方から吹いてくる風に対しても、なるべく帆の横断面が風の流れと平行になるように調整してやれば、船を前進させるに十分な揚力が生じることになります。その場合、風が左斜め前方または右斜め後方から吹いてくる時には船を右の斜め前方に推し進めるように、右斜め前方または左斜め後方から吹いてくる時には船を左斜め前方に推し進めるように力が働くことになります。厳密には、風下側に船を動かそうとする風本来の力と帆に生じる揚力起源の推進力との合力方向に船は動くことになりますが、揚力のほうが大きいので結果的に船は前進が可能になります。もちろん、そのままだと船の進行方向は左右にずれますが、直進するようにそれを制御するのが船の最後尾にある舵と帆の向きの調整機構というわけなのです。
 大航海時代に見るような、何本もの帆柱に複数の帆を段状に積み重ねた構造をもつ大型帆船などは、進行方向から真逆に吹いてくる風をも推進力に変えることができました。風の向きに対してほぼ右45度の角度に船首を向け、帆の断面をなるべく風の流れに合わせるように操作することによって揚力を生み出し、その力で右斜め前方に一定距離だけ進みます。そしてそのあと船首の向きを風向に対して左45度ほどになるように回転させ、帆のほうも同様に操作して左方向にまた一定距離進みます。タックと呼ばれるこの航法を何度も繰り返しジグザグの航路をとりながら、結果的に帆船は風上方向へと進んだわけです。実際に、大型帆船は風さえあれば目的地へと向かって進むことができたのでした。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.