時流遡航

《時流遡航244》日々諸事遊考 (4)(2020,12,15)

(文章表現媒体のデジタル化に伴う問題点を考える(前))
 種々のデータ通信技術の飛躍的な発展に伴い、近年、人々の間では、紙媒体の新聞、雑誌、書籍などから遠ざかる傾向が強まってきました。昨今では、それら紙媒体の類を手にするのは高齢者が殆どという状況にさえなってきたようです。学術系出版社を含む書籍出版業界ばかりではなく、ビジネス界や行政関係分野でも紙媒体からデジタルシステムへのデータ移行が急速に進められるようになってきました。現政権においてデジタル庁の創設がなされたのもそのような社会の趨勢を配慮してのことだったのでしょう。人間社会の中において折々そのような大変革が起こるのは、常に変遷し続ける時の流れにはつきものの事態ゆえ、避け難いことではあります。ただ、だからといって、何の検討もなく、また一抹の懸念さえも抱くことなくそんな状況を受容してしまうなら、それは些か問題かもしれません。進歩的社会改革によって失われるものもけっして少なくはないのですから……。
 かねてから雑文ライターを自称している筆者のような者でさえも、そのような社会的状況については少々危惧を覚えてもいます。それは、本来あるべき日本語による文章表現、なかでも文学や芸術的な表現分野の大幅な衰退にも繋がりかねない事態であり、日本の伝統文化の存続にも深く関わる問題だからです。そんな状況が急激に広まれば、「一隅に咲く、これ野の花の心」という信条のもと、世の片隅にあって愚にもつかない日本語文の表現にこだわるこの身の如き者の存在意義など、瞬時に吹き飛んでしてしまうに相違ありません。
諸々の学術文化情報の映像化やデジタル化が進んでも日本語そのものが衰退するわけではないし、近い将来そんなことが起こるはずもないから、それは杞憂に過ぎない――そんな風に思われる方も少なくはないでしょう。しかし、冷静に考えてみますと、それら一連の表現媒体転換の問題は、一顧もしないままで無視してしまえるようなことではありません。そこで、まずは誰もが見慣れた媒体である新聞や雑誌を事例に、記事掲載媒体の変化がもたらす影響について少しばかり踏み込んで考えてみることにしてみましょう。
最近では新聞業界や雑誌業界が若年層を中心とする人々の活字離れによって不況に陥り、休刊や廃刊になってしまう出版物も続出しているみたいです。なんとか従来通りの事業を継続している大手新聞社や雑誌社などでも、紙媒体版とデジタル版とを併刊したり、デジタル版への完全移行を目指したりしているところがほとんどのようです。
(両媒体の特性を比較してみる)
 紙版の新聞雑誌の場合には、各ページを大きく開いたりパラパラとめくったりしながら複数の記事の見出しやその概要を大まかに把握し、関心のあるところがあればまずはそこを読み込み、さらには、当初は関心がなくても、何気なく目をやったりするうちに意外な記事内容に心惹かれたり、思わぬ発見をしたりするものです。異なるページの記事を相互に関連付けながら取り上げられている社会的事象を多面的に把握したり考察したりすることも可能です。たとえ小説や評論文のような相当に長い文章であっても、前後の関係を大まかに把握しながら随時自由に先読みしたり返し読みしたりすることができもします。必要に応じて何度も同じ記事を読み返したり、同じ事象や事件について触れている他の新聞雑誌の記事と比べ読みをしたり、先々役に立つかもしれない資料として記事の切り抜きをしたりすることもできるでしょう。そして、何よりも重要と思われるのは、日々それらの行為を繰り返すことによって、それなりに長い日本語本来の表現体に馴染むことができ、さらにはしっかりした文章読解力や文章表現力を自然に身に付けるようになっていくことかもしれません。有名な連載コラムや小説欄などに深く親しみ、その文体に大きな影響を受けることによって文筆家を志す若者が現われたりもすることでしょう。ともかくもそんな新聞や雑誌の役割はけっして少なくありません。
 では、近い将来、新聞雑誌類が全てデジタル版化し、紙版のものが一切廃刊となった場合はどのようなことが想定されるのでしょうか。ちょっと考えてみたところでは、良いことずくめで何の問題もないように思われます。紙版だと膨大な量になる複雑かつ多様な過去のデータをごく小さな記憶媒体に収録し、検索をかけることによって簡単に手元のパソコンやタブレットなどの読み取り機器画面に表示でき、しかもその内容の即時コピーや転送も容易なデジタル版には負の側面など全く見当たらないような気がします。
諸々の外部のデジタル版新聞雑誌データを一気に取り込み、必要に応じてその記事内容を容易にチェックできるのも、その機能の手軽で優れた一面でしょう。俗に言うコピペ、すなわち、他人が執筆した文章の一部を切り取り自分の文章の中に張り付け、随意に転用することができるようになったのもデジタル情報技術普及の恩恵にほかなりません。
 しかし、デジタル版というものは表示画面のサイズなどに制約があるため、新聞の場合には記事項目別に、雑誌類の場合には項目別やページ別に分けてファイルが構成されています。そのため、紙版のように手軽に全体の記事概要を把握したり、記事相互間の関係づけをしたり、長文記事の各文章の前後に何度も確認の視線を送ったりしながら、その内容の理解を深めることは容易ではありません。他の新聞雑誌と読み比べてみるとなると、別ファイルを読み込む必要がありますから話はますます厄介です。紙版と違ってどこにどんな記事があったかを想い起こすのでさえ苦労することでしょう。まして、優れた文章に特有なリズム感や文字群の間に漂う艶やかさを学び味わうとなると、光学的性質上、人の視覚と集中力を拡散させてしまいがちなデジタル版特有の負の側面も浮上してきます。
 新聞雑誌のほか、これまで紙版製本が当然とされてきた各種文学作品や学術書などまでがデジタル化されるようになり、紙版の廃絶が一気に進むとすればどのようなことが想定されるのでしょうか。過去の膨大な量の文献書籍類の全てをデジタルデータ化し保存しておけば、従来よく起こったようにそれらが散逸して失われたり忘れ去られたりすることもなくなります。また、複数のコピーを作成して別々の場所に保管しておけば、各種災害などの際に貴重な文献資料の内容を完全喪失してしまうようなこともありません。将来的に全ての書籍文献類のデジタルデータ化が進み、インターネットを介して誰もが必要に応じそれらにアクセスできるようになれば、図書館や書店に出向く必要がなくなりばかりか、それらの施設や店舗そのものが姿を消してしまうことでしょう。何事も移り変わるのが世の常ゆえ、そんな時流に逆らうことは無駄なことだという見解などもありはするでしょう。しかし、そんな変遷の過程を通して少なからず失われるものがあるとすれば、しばし足を止めてその負の側面を一考してみるくらいのことはあってもよいかもしれません。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.