時流遡航

第30回 東日本大震災の深層を見つめて(10)(2012,01,15)

東北沖一帯を震源とする今回の大地震を予知できなかったということで、地震学者、さらには地震学そのものに対して各方面から批判の声なども上がっている。しかし、その批判にはいささか無理なところもある。そもそも、地震学者らが、統計的に見るかぎり最も地震の起こりそうにないところでマグニチュード9クラスの大地震が発生し、想定を遥かに超える巨大津波が生じる事実を認識したのは、先年のスマトラ沖地震の際が初めてであった。今回の東北沖の大地震の場合も、過去の三陸沖大地震で幾度となく震源となった海底域とは異なる想定外の海底部で大地震が生じ、それが従来の震源域での地震をも誘発し、結果的には4百キロ以上にも及ぶ海底域一帯が連動して超巨大震源となった。そして、日本では起こることはないとされていたマグニチュード9の大地震に見舞われることになったのだ。既に述べたように、過去に事例のないような事象の予測に関して確率論は無力である。ほとんど地震に無縁と思われる地域でも何千年、何万年に1回は地震が起こり得るわけで、しかもその場合にはエネルギーの蓄積が大きいから巨大地震になる可能性が高いのだが、その種の地震の発生を正確に予測することは到底不可能だと言ってよい。

地震予測に関する思考モデル

たとえ地震が頻発する震源域であったとしても、そこにおいて何時どのレベルの地震が発生するかを的確に予想するなどできるはずがない。その理由を納得してもらうにはちょっとした思考モデルを提示するだけで十分だろう。

いま、薄い長板の両端に一定の力を徐々に加え続けていく場合を考えてみることにする。いずれその板は折れることになるのだが、折れる部位やその折れ方、折れる際の衝撃度、折れるまでに要する時間などを正確に予測できるだろうか。また、2枚の長板を相互に半ばくらいまで重ね合わせて接着剤で貼っておき、そのあと同様の試みをしたとするとどうだろう。接着部が外れる際の状況やその衝撃度、それまでの経過時間などを確実に予想できるだろうか。現代科学の粋をもってしても現実にはそれはまず不可能だろう。

さらにまた、頑丈で太くて長い巨大な木材に両端から10年ほどの年月をかけ、機械によりじわじわと圧力を加えていく実験をするとしてみよう。このケースでは、外気温や湿度の変化、木材の老朽度、四季の変遷、長期的な環境変動、各種生物の寄生による影響など諸々の要素が複雑に絡むから、何年後の何月何日何時何分にどの箇所でどのような状態を呈してその木材が折れるかを予測するなど絶望的となる。また、それ以前の問題として、地味で長期にわたるこの種の実験に辛抱強く付き合うことができる者がいるだろうか。「10年経つうちに何時かは折れるはずだから、常にその瞬間を予測し、起こるべき状況を念頭に置きながら、一刻も惜しむことなく観察行動を継続しなさい」と要請されても、時間が経つにつれて面倒になり飽き飽きしてきて、遂にはそんな実験などどうでもよくなってくるに違いない。その一連の状況は、大地震や大津波のあと2、3年間は真剣に将来の同種の災害への対応策を考えるが、次第に切迫感が薄れてゆき、遂には新たな大震災の到来そのものに対する危機感を忘れ去っていく過程にも通じるものがある。まして、事前把握が困難な諸要素が複雑に絡むプレート型地震の場合には推して知るべきであろう。

気仙沼湾沿いの被災地を巡る

途中そんな考えながら車を走らせているうちに気仙沼市内に入った。海岸線から離れた高所に位置する国道沿いの地域には被害はほとんど見られなかったが、国道を離れ坂道を下って気仙沼湾西側沿いの低地に出ると光景は一変した。驚くほど広域にわたって地盤沈下が起こり、倒壊した一帯の建物はむろん、辛うじて形だけは留めている大小多数の各種建物群も皆海水に浸かってしまっていた。通行止めになったりしていて車での走行が不可能なところもあったので、そのようなところは徒歩で廻ったのだが、カモメやカモの類をはじめとする各種の水鳥たちが我が物顔に浸水した建物の周辺を泳ぎ回っている有り様だった。それら水鳥たちは、「ようやくこの地を自分たちの手に取り戻すことができたぞ!」と意思表示でもしているかのようであった。

海岸線から数百メートル圏内の海水浸入地域には重機を持ち込み作業すること自体が困難だろうから、半全壊した各種港湾施設、水産物加工所、魚市場、製氷所、倉庫、商業施設、金融関連機関などのビル群を解体するだけでも気の遠くなりそうな時間、労力、そして経費が必要になりそうだった。まして、その一帯を広い更地に再整備し、盛り土して沈下した地盤の嵩上げを図り、そこに諸施設を元通りに再建するとなると、5年や10年では足らないようにも感じられた。ただ、だからと言って、湾沿いのその地域の再興を放棄したのでは、三陸地方の中心的漁業・港湾・観光都市としての気仙沼の存立が危うくなることは目に見えていた。なんとか車が一台ゆっくり走行できるほどに瓦礫の撤去された気仙沼港近くの道路を通ったが、両側はまったく手付かずの瓦礫の山で、とんでもない高さのところに壊れた車や漁船などが鎮座している光景なども目撃された。海岸線から少なくとも1キロ近くは離れているのではないかと思われる高所に無残な姿を晒しながら大型漁船が何隻も横たわっているのも、大震災直後に見る気仙沼の特徴的な光景だった。

気仙沼湾の東奥一帯は津波の直後に大火災にも見舞われた。激震に加えて水攻めと火攻めの双方に痛めつけられるという不運に遭遇したこの地の人々の思いは想像に余るものであった。気仙沼の死者・行方不明者数は合わせて1500名ほどにのぼったが、市街地の被災状況からすると、もっと多くの犠牲者が出ても不思議ではなかったようさえ思われた。

最も被害のひどかった地域を徐行中のこと、過去何度も仕事で気仙沼を訪ねたことがあるという助手席の同行者が、「あっ、ここだ」と突然声を上げた。左手に原型を留めないほどに破壊され押し潰された水産加工所らしい建物が見えた。その同行者の話によると、その加工所の経営者とは旧知の仲だが、大震災の当日以来、まったく連絡が取れなくなり、消息はいまだに不明だとのことであった。その向かい側にあったお店では夜などよく一緒に飲んだのだというが、そちらのほうは建物の跡すら見当たらない状況だった。車から降りた同行者は、「もしかしたら今もこの下に眠っているのかもしれない」と呟きながら、潰れた建物の奥を覗こうとしたが、状況的に見てどうできるものでもなかった。かねがね気丈なことで知られるその同行の人物が、少し涙ぐみながら無言で合掌する姿を私は遣り場のない思いでじっと見守り続けていた。

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